人づきあいに気疲れする原因

神経過敏な人は、生きていくうえに最も根元的な、最も大切なものを欠いてしまっているのである。

したがって、表面上は他の人と何も変りがないのに、本人は、意識するかしないかは別にして、深い自己不完全感を味わっている。

何か大切なものが不足しているのである。

それは、人々との暖かい心のつながりをどうしても築けないということである。

 

すくんでしまった情緒は、どうしても他人と自然な心のつながりを持つことができない。

表面上はつきあえても、根元的には離れている。

だからどうしても気がねをする。

気疲れもする。

周囲の人がたとえ暖かくその人を迎えても、神経過敏な人はその雰囲気のなかに身をまかせることができない。

それは周囲の人に問題があるのではなく、あくまでも幼年時代にすくんで動けなくなっている自分の情緒の方に問題があるのである。

したがって周囲がどんなに暖かく迎えても、やはり本人は気がねをして疲れる。

 

神経過敏な人は、相手の好意を求めながらも、その好意に身をまかすことはできない。

周囲から好意を得られれば、その好意に対して恐縮してしまう。

好意に対してさえ萎縮してしまうのである。

それは幼児のころから親との関係で条件づけられた反応の仕方だからである。

「お前はいい子だなあ」と頭をなでられても、それは自由に振る舞った結果としていい子なのではなく、親の虫のいどころのよい結果としていい子であったのである。

「お前はいい子だなあ」と頭をなでられることで、子供は反発することを内面的に禁じられ、しかも相手に対しては心を許すこともできない。

子供はそんなにっちもさっちもいかない状態に追い込まれる。

大人になってから周囲の好意に対してさえ萎縮してしまうのは、このような幼児、少年少女の時代に条件づけられた反応なのである。

 

神経過敏な人は、人の好意に接したりほめられたりすると、どうしていいかわからなくなる。

ほめられればほめられるほど、萎縮してしまう。

他人の賞賛を求めながらも、賞賛に接すると萎縮してしまう。

ノーといいたい時、ついイエスといってしまう人も、小さいころの親子関係をもう一度振り返ってみることである。

 

小さいころ「いい子だなあ」と頭をなでられたのには、実は二つのメッセージが含まれていたのである。

ひとつはまさにいい子という意味であり、もうひとつは、自由に振る舞ってはいけない、親のいう通りになっていろ、極端にいえば親のペットであれ、という意味である。

しかし、そのいい子というのは、何かの実績をあげた結果としていい子なのではなく、たまたま親の気持ちのあり方で、いい子になったにすぎない。

つまり、いい子といわれたからといって、自分の側にはいい子であるという自信があるわけではない。

たまたま偶然の好運によっていい子になったにすぎない。

もし子供なりに何かの実績をあげて、それが評価されたのなら、いい子といわれたからといって、そんなに気がひける必要はない。

堂々としていられる。

しかし偶然の好運でいい子とほめられれば、気がひけたり恐縮するのは当り前である。

ただいるというだけでいい子とほめられた子供は、当然ただいるというだけで悪い子になるのを知っている。

このような親子関係の支配する家庭のなかでは、子供は安心して身をおく場所がないのである。

まさに身のおき場がない。

これが根元において隔離されているということである。

進むことも退くこともできない。

だからといって、そこにとどまっていることもできないのである。

 

いい子といわれて自分を誇らしく思うこともできない。

かといっていい子といわれているのに口ごたえするわけにもいかない。

いわんや自分をほめてくれた人に共感をおぼえるなどということもない。

実は、その場をはやく逃げ出したいのである。

しかし逃げ出すこともできない。

 

まず子供は親のなかにとり込まれて、そのうえでほめられているのである。

したがって、子供は意識しないが、親に対する恨みを心の中に宿している。

無意識下に恨みがあるからこそ、心から素直に相手の賞賛を喜べないのである。

「いい子だなあ」 と頭をなでられながらも、何かしらの「わだかまり」 が子供の側にはできてしまう。

それは自分をとり込んで身動きをできなくしてしまった親への意識下の恨みがあるからである。

この恨みは決して意識されることはない。

ほめられて可愛がられているのに恨むことはできないからである。

 

しかしほめられるのも可愛がられるのも、親のいいなりになる都合のよい存在であるからにすぎない。

子供は自由な伸び伸びとした気持ちを味わうことができない。

周囲に対して恨みを持つのは当然である。

しかも恨みを持つことは許されない。

これが周囲への「わだかまり」 となって出てくる。

親に感謝しながらも、どこかにわだかまりがあって心からの感謝とはならない。

根元的に世界から隔離されているということは、このように素直に自分の感情を表現する方法を失っているということでもある。

わだかまりがあって、相手とひとつの感情にとけあうこともできず、かといって相手から離れていくことも、何となくできない。

そんな人間のあり方が、神経過敏となってあらわれるのであろう。