金は貸さない、借りもしない

友人には金を伴してはいけない、と昔からいわれている。

万一、金を返してもらえなくなったときは、仲違いをすることになり、友人を一人失ってしまう結果になるからである。

金の貸し借りにまつわる危険性が高いことを指摘すると同時に、友人が貴重な財産であることも示している。

 

友人であるからといって信用しているので、必ず返してくれるであろうと安易に考えている。

しかし、人から金を借りようとするのは、きわめて「異常な事態」であることを認識しておかなくてはならない。

自分に金がないのに何かを欲しがるのである。

金が手に入るまで、なぜ待てないのか。

ものやサービスを買うときは、金と交換するというのが正常な考え方だ。

人から金を借りて、すなわち「人の金」と交換に、自分が何かを手に入れるのは、人間社会の原則に逆らっている。

 

月末には入金予定があるといっても、予定通り入ってくるかどうかはわからない。

どうして月末まで待ってから、自分の金を使って買おうとしないのか。

いずれにしても、人から金を借りようとする人は、毎日の暮らしについて計画性のない人であり、金を大切に扱おうとしない人である。

したがって、入金の見込みについても考えが甘い。

金の使い方についても、だらしなく浪費癖のある人が多い。

それに、金回りの悪い人であるから、どうしても返済が約束通りになされないリスクが高い。

期限が少し遅れるだけではなく「永久に」遅れるかもしれない。

 

銀行が金を貸すのは金がある人に対してであって、金を必要としている、金のない人には貸してくれない、といわれている。

銀行は金銭を預かる一方で、それを貸すのを商売にしている。

預かるのは比較的に安全であるが、貸すときは返される見通しがないと「商売」にはならない。

金を借りる人は使うためであるので、使ってしまったら金はなくなる。

すると、その人のところに金が入ってくる「僥倖(ぎょうこう)」を望み、それが返済に回される「好意」にすがるほかない。

僥倖と好意を当てにする商売である。

 

金を持っている人であれば、借りた金は使っても、すでに持っている金から返済することができる。

そういう人にはある程度は安心して貸すことができる。

健全な商売を営んでいくためには、安全を第一に考えるのが鉄則である。

リスクを冒すときは、その部分はゼロになるかもしれない点を覚悟しておかなくてはならない。

銀行としては人から預かっている金は返さなくてはならないのであるから、貸すことに関して最も安全な道を講じるのは当然の義務である。

ビジネスのために金を借りようとするのも、正常な論理の道から外れている。

自分が稼いで貯めた資金で仕事をしようとするのが堅実な道だ。

人の金で何かをするのは

いわば人のふんどしで相撲を取るにも等しい。

他人の金を使って、儲けだけは抜け目なく自分のものにしようと思っている。

 

借金ではなくて投資を募るほうがフェアだ。

投資をする人は、そのリスクを十分に認識したうえで金を出すので、最悪の結果になっても仕方がないと諦めることができる。

借金の場合は借りるほうが、その返済について全責任を負うべきである。

返せなくなったからといって、「ごめんなさい」と謝っただけでは、無責任の極というべきだ。

やはり身体を張り「命懸け」で始末をつけなくてはならない。

人間の信用とか誠意とか口でいうのは簡単であるが、最後に一人の人間の「担保」になるのはその人の命である。

そのようなことは考えようともしないで、ずるを決め込む「悪人」が多すぎる。

男らしく命を投げ出すくらいの気迫の人は稀になった。

 

どうしても借金をする必要に迫られたときは、返済には命を懸けるつもりになり、それを約束する心構えが必要だ。

それができないときは、借金をしないことである。

また、人に金を貸さないのを鉄則にする。

相手の事情やその場の状況によっては金を貸さなくてはならないと判断される場合もある。

そのときでも絶対に金を貸さないという原則を貫く。

そのうえで自分に経済的な余裕があるときは、自分の勘定において用立てる。

すなわち「あげてしまう」のである。

そうすれば、返してもらえるかどうかを心配する必要もないし、友人や知人を助けて良好な人間関係を継続していくこともできる。

もらった人としては、相手の気前のよさに感謝し、その恩義を忘れることはない。

貸すのに比べるとまったくリスクがなく、少なくとも人間関係においては必ず報われるというリターンの確実な投資をしたに等しい。

賢い男のとるべき道である。