大人の人間関係で「いい人」である必要はない

「いい人」でいようとすることが、周囲にとって、かえって迷惑だということもある。

知人の女性が、こんな話をしていた。

友人と旅行に行くとき、相手がいい人だと疲れるからイヤだというのだ。

「自分勝手にしてくれるくらいで、ちょうどいい」らしい。

これは、どういうことか相手がいい人だと、どこへ行くのも、何を食べるのも、「あなたの好きなところでいいわ」「あなたが食べたいものでいいわ」となる。

何でも人に合わせてしまうので、すべてこちらが決めなければならない。

本人の意思が見えなくて、一緒にいて楽しいのか、本当は不満なのかもわからない。

旅行中はずっとその調子で、バスルームも「先に使って。私はあなたのあとでいいから」と些細なことまで気を使ってくれる。

ここまでされては、逆に「面倒くさい人だ」と距離を置きたくもなるだろう。

一緒に旅行に行く相手は、気兼ねしないでお互いに旅を楽しめる相手がいちばんいい。

団体旅行でわがままを通して、ツアーに迷惑をかけるようでは困るが、個人の旅行なら「あれが見たい」「これが食べたい」と、はっきりいってくれたほうが気がラクだ。

行きたい場所が違っていたら、お互い自由行動にすればいい。

それは、相手を避けていることではないし、別に「いい人」である必要はない。

 

私がつきあいのある企業に、自分が所属する部署の飲み会があるたびに、幹事を引き受けている男がいる。

マメでよく気がつくし、お店もいろいろ知っているので「○Oに頼めば、うまくやってくれる」と周囲から思われている。

本人も期待されているのがわかっているから、ついつい笑顔で引き受けてしまう。

だが実際のところ、さまざまな手間を考えると、まったく割に合わない。

そんな時間があったら、もっと仕事をして会社から評価されたい。

ところが、いざ頼まれると断れないのだ。

「自分はつい、いい人になろうとしてしまい、好きなように振る舞えない」

こうした悩みをよく見聞きする。

 

早く帰りたいのに残業を引き受けてしまう。

頼まれて、行きたくもない展覧会のチケットを買うはめになる。

PTAの係を押しつけられて断れない。

「イヤ」といえない、人のいい自分がイヤだ、というわけだ。

「ノーというべきときにいえない人は自分を不幸にする」

サミュエル・スマイルズの言葉だが、その通りになっている人が意外に多い。

 

それにしても、なぜ「いい人」になろうと考えるのだろう。

自分の意見をいわないで人の意見を聞いてしまうのは、仲間外れになりたくないからか。

周りにいい顔をして、自分を認めてほしいからではないか。

つまり、そこにはズルさや計算が隠されていないか。

人はみな、「人間にはズルいところがある」ということをわかっている。

面倒くさいことを人に押しつけるのもズルさだが、それを引き受けてしまう側にもズルさがあるということだ。

だから、「あの人がやってくれるというんだから、頼んでしまおう」と便利に使うが、引き受けている人間を頼りにしたり、大いに評価しているというわけでもない。

 

そう考えると、いい人でいるのがバカらしくならないか。

「これまでずっと引き受けてきましたが、ちょっと大変なので、ほかの人に替わってもらいたいのですが」と一度断ってみれば、周囲は「そうか」と、案外何とも思わないものだ。これが、大人社会の距離感といえる。

大人同士の関係は、自分も気兼ねせず、かつ相手にも気兼ねさせないのがいい。

こうしたリラックスした関係性を保てるのが大人で、必要以上にいい人でいようとするのは、人との距離をうまくとれない子どものすることなのだ。

社会で成功している人間は、その大半が決していい人ではない。

会社を切り盛りしている経営者も、できる上司もいい人では務まらない。

ブラック企業といわれるくらい「悪い人」でないと、企業はのし上がってはいけないのだ。

みんなズルくて悪いところがあるから、世の中は回っている。

自分もその一員なのだと考えれば、もっと自然に振る舞えるのではないか。