父親が子どもに「お前は男の子なんだから、外に行って遊んできなさい」というけれども、母親は「しっかり勉強しなきゃ、お父さんみたいになっちゃうでしょ!」という状況です。
これでは子どもも困ります。
あるいは、会議では「しっかり計画を練ってから、営業に出なさい」といいながら、机に向かって計画を練っていると、「何もたもたしてるんだ。早く得意先回りに出かけんかい!」という上司の発言です。
このような、「じゃあ、私、どうすればいいの」といいたくなるような言い方は、人を混乱させ、傷つけてしまいます。
夫婦でとことん話し合って、子どもには共通の言葉でいうことが必要です。
たとえ、両方の意見がそれぞれ問違っていないとしても、子どもを迷わせたり、苦しめたりしたのでは、なんにもなりません。
両親が矛盾したことをいい続けては子どもの精神を痛めつけてしまいますし、健全な成長をはばむことにもなります。
この上司のように、ひとりで矛盾したことをいったり、やったりする人の多くは、頭で考えている「理想」と、目の前にある「現実」に大きな開きがある人です。
理性としては「計画的に仕事をさせるべきだ」と考えているのですが、部下が精力的に働いている姿を見ないと、感情の部分で納得できないのです。
このような上司による、理性と感情の「気ままな発信」によって苦しんでいる部下も多いと思います。
親でも上司でも、あるいは教師にもいえることですが、 「相談しなさい」「自分の意見をはっきりいいなさい」といいながら、相談したり、意見をいったりすると不機嫌になり、「そんなことは自分で考えなさい」と冷たく反応し、そのあとの話ができない状況を作ってしまう人がいます。
確かに、自分で考えさせたほうがいいこともあるでしょうが、相手の話には冷たく反応し、自分の考えを懸命に押しつけようとするなら、まさに二重拘束になってしまいます。
一方で「相談しなさい」といい、一方で「自分で考えなさい」というのでは、自己矛盾を人に押しつけているだけで、そのためにつらい思いをしている人もいるのです。
人を傷つける話し方の本質は、このように自分自身の心の問題によるところも大きいと思います。
「人には、やさしくいおう」と心がけるのもけっこうですが、それよりも「人には、やさしく接する人になろう」と心がけて実践することのほうが「人に認められ」て、結果的に「得する自分」に近づけるのではないかと思うのです。
人を喜ばせたい、人を幸せにしたい、そういう気持ちがあふれてきたら、「ものの言い方」も、知らず知らずのうちに人を引きつけるものになっていると思うのです。