「金の切れ目が縁の切れ日」は、一面の真理である

「金の切れ目が縁の切れ目」とよくいわれる。

この言葉に、寂しいと感じる人もいるだろうが、お金と人との距離についてはドライでいい。

ウエットに考えることはない。

 

おしどり夫婦だったはずが、夫が莫大な借金をつくったとたん妻が家を出た。

彼女のおねだりに応えてあげられなくなったら、愛人と連絡がつかなくなった。

こんなケースは世の中にゴマンと転がっている。

たいていは男にお金がなくなって、女が去る場合が多いが、現代は逆パターンもある。

独身でお金持ちの中高年男性を狙って接近し、毒殺して大金を奪うなどといったケースは、その典型だ。

男女間ばかりではない。

お金の問題は、仕事でも友人関係でも「金の切れ目」のようなことは起こりうる。

長い間、経営者についてきた従順な社員でも、会社が傾いたら一刻も早く他社へ移ろうとする。

貸したお金を返さない友人は、もはや友人とは思わない。

当然のことだ。

 

もちろん、お金が切れても切れない縁もある。

それは、相当に深い信頼関係があってのこと。

それほど深い関係でもないのに、「あいつは、こちらにお金がなくなったら見向きもしなくなった」とショックを受けるのは、受けるほうが甘い。

私は、「金の切れ目は縁の切れ目」というドライなつきあい方も悪くないと思っている。

最初からそういう前提ならば、縁が切れてもどうということはない。

逆に、縁を切りたければお金を切ればいい。

非常にわかりやすいではないか。

若い人たちと酒を飲むのが大好きな経営者がいる。

月に一度、行きつけの小料理屋を借り切って宴会をする。

そこには自社の人間だけでなく、起業を目指している若者たちも招いて飲み食いをさせ、いろいろ話をするのが経営者の楽しみになっている。

ここに集う起業家の卵たちの中には、その経営者と話をしたくて来る人もいるし、飲食が第一目的の者もいる。

それは、どちらであってもかまわない。

だが、この会合は、経営者がお金を出すのをやめ、会費制にでもなったら自然消滅するだろう。

それは、それで何の問題もない。

経営者は自分が出せる範囲でお金を出している。

若き起業家たちも、それにくっついてはくるが縛られているわけではない。

 

こう考えると、人は案外、お金から自由な距離にいる。

それがいい距離感なのだろう。

お金とは、人の心とは別次元の便利なツールにすぎない。

それなのに、「金の切れ目が縁の切れ目だなんて寂しすぎる」と嘆いたり、「金がすべてのこの世はおかしい」などと、あたかも人間がお金によって狂わされているかのように騒ぐのは、少々ピントがズレている。

「金銭は何人たるを問わず、その所有者に権力を与える」といったのは、イギリスの評論家ジョン ラスキンだ。

この見方に反対する人は少ないだろう。

そして、こういう一面があるからこそ、お金を得ようとする人を批判的に見てしまう。

しかし、お金は便利なツールなのだから、たくさんあったほうがいいし、それを得ようとするのは恥ずかしいことでも何でもない。

それに、お金は万能ではないし、それを持つことで失敗することもある。

 

イギリスの経済評論家ハーバート・カッソンはいった。

「お金は脳みそのようなものである。昔は大きな脳みそほど、その持ち主は頭がいいと思われたが、いまは間違いだとわかった。いくら大きな脳みそでも、それがお粗末なものならば、それを持っている人はお粗末だといえる。金持ちの場合もそれと同じだ」

また、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「無知は富と結びついてはじめて人間の品位を落とす」と皮肉っている。

お金に関する格言は多い。

世の中のほとんどの人は、そういうこともわかっている。

わかっているから、お金がないことで自分を卑下したり、お金を持っている誰かを攻撃してはいけないという、人間としての尊厳を保っている。

それで十分ではないか。

人との関係にお金のことをからめ、ウエットに考える必要はない。