神経質をなおすために、何より大切なのは「行動」である。
何かをやろうか止めようかと悩んだら、必ずやること。
野球をやろうか止めようか?
友達の家に行こうか止めようか?
泳ぎに行こうか止めようか?
何でもいいから、行動か中止かと悩んだ時、とにかく行動すること。
じっと考えていてはいよいよ行動神経質になり、心配ばかりしていることになる。
憂うつと戦うのに大切なことは、馬鹿らしく思えても、そのことをやり続けることである。
こんなことしていて何になるのだろうと思っても、そのことを中途で止めないことである。
他のことがやりたくなって今やっていることを止めるのはよいが、他のことがやりたくない以上今やっていることを止めてはならない。
決して止めることなく続けていれば、やがてまた元気は回復してくる。
あるサラリーマンが、ふと気持ちが沈んできた時、会社を辞めてしまった。
彼の言葉によれば、地下鉄の駅の階段をおりている時、ストーンと気持ちが落ちてしまった、というのである。
幸い奥さんが賢明な人だったから自分が働きながら生計をたてている。
そして彼の方は、今まで何回かそういう気の沈みが思いがけずやってきたことがある、という。
そして彼は「俺は病気なんだ。」と病気に逃げてしまっている。
このような自己弁護のいいわけをする人はかなりいる。
しかしこのように自己弁護のいいわけをする人は、一体いいわけによって何を弁護しようとしているのであろうか。
このようないいわけから何が生まれてくると思っているのであろうか。
実は、そのように何事もいいわけしようという心構えが、つもりつもって現在のような抑うつ的な人間になってしまったのである。
今までだっていいわけをして何かいいことがあったかといえば、何もいいことはなかったに違いないのだ。
病気に逃げ、病気のふりをすることによって回復はいよいよ難しくなる。
自分の能力を発揮する機会は、今までにもいくらでもあったに違いない。
しかしその機会に失敗することを恐れて、他人の眼を意識して、自分を実際の自分以上に見せようとして、とにかく何かを恐れて、その機会を見のがしたのである。
自分に決して能力がないわけでもなければ、能力を発揮する機会がなかったわけでもない。
しかし本当のありのままの自分の姿が、自分の前にも他人の前にも明らかになることを恐れて、その機会を見送ったのである。
そして弁護したのは何か。
偽りの自分のイメージだったのである。
本当の現実の自分を隠し、偽りの自分の姿を守ろうとした、それが今までではなかったのか。
そのような行動の選択の結果として、今のように気の沈みがちな人間に、気持ちのすさんだ人間に、気持ちの不安定な人間になってしまったのではなかったろうか。
気持ちがストーンと落ち込んでしまった時、俺が悪いんじゃない、俺は病気なんだ、と奥さんに甘えるなら、いよいよ自分の価値を信じられなくなる。
それよりも、自分は生まれつき快活な明るい子供ではなかったかもしれない、しかしその自分の憂うつな気持ちと戦いながら今こうして立派に生きぬこうとしていると自分の価値を信じて行動することが、やがては本当に自分を明るい人間へとつくり変えていく。
自分はダメな人間だとして行動するのと、自分は価値ある人間だとして行動するのとでは結果は全然違ってくる。
ストーンと気持ちが沈んだ時、それに甘えて何もかも止めてしまったなら、自己不信はいよいよ増してくるだけである。
できることもできなくなる。
気持ちが暗い時できる最大のことは、明るそうに行動することである。
明るそうに行動できないならば、とにかく行動することである。
甘えている人は、何でもない時にさえ不機嫌に行動して、自己中心性を通そうとする。
そのような行動によって、いよいよ不機嫌になってくる。
気分は外からくるものでも、内からくるものでもなく、そこにいる自分の行動によって決まってくるのである。