行動を阻害されている人のパターン

自己中心の人は、たとえば 『食事とはこうするものだ』 とか『文章とはこういうものだ』とか、固定した観念にとらわれている。

文章にも難しい文もあれば、易しくて楽しい文章もある。

しかしそのものに応じて意味を認められず、『文章とはこういうものだ』という固定観念から、殆んどあらゆる種類の文に否定的判断を下す。

さらには『人間とはこういうものだ』という固定観念を持ち、自分とは違う他人の生き方を認めることができない。

 

彼は共同の世界に対し常に否定的判断を下そうとする。

それは周囲の世界と閉ざされた対立をしているからである。

いってみれば周囲の世界は自分の存在をおびやかす敵なのである。

他人をけなさずにはいられないような人がいる。

 

圧迫感と虚無感、これが世界と対立してしまった人間の味わう苦しみである。

他人をいつも疑っている人は、いつも他人をだまそうとしている人ではなかろうか。

常に他人をだまそうとしている人が他人を信用できるはずがない。

自分が他人にとって危険な存在である時、その人は他人に対して用心深くなる。

疑い深い人というのは、その人自身がいつも他人を裏切っていることを示している。

自分が世界を拒否した時、世界は自分を拒否したと感じがちである。

 

幸福な人は「世界は自分にほほえみかけている」と感じているのではなかろうか。

世界に向かってほほえんでいるからこそ、世界が自分に向かってほほえんでいると感じるのである。

虚栄心の強い夫を持った奥さんが、ある日、『もう主人のことはわからない』といことがある。

彼は突然怒り出すのだという。

どうして怒るのかまったくわからない、というのである。

しかし、よくよく聞いてみると、やはり怒る理由はある。

つまり奥さんが誰かをほめると不機嫌になるのである。

奥さんにしてみれば、別に自分達に何の関係もない人なのに、何かその人についていうと主人は怒るというのである。

学生時代の友人のことであろうが、テレビに出てくるタレントのことであろうが、どんな人であろうが、ほめると怒るという。

それは奥さんから見て関係ないのであって、主人から見れば関係はおおありなのである。

主人は世界と対立してしまっている。

周囲の世界は彼にしてみれば、いわば敵である。

周囲の人は誰であれ自分の存在をおびやかす者である。

自分の存在をおびやかすとは、自分の尊厳を傷つける可能性がある、ということである。

 

敵をほめられて嬉しいはずがない。

周囲の世界と対立してしまっている人は、もともと周囲の世界に気持ちのうえではすでに敗けているのである。

彼は周囲の世界が自分より優勢であると感じている。

だからこそ反抗的になって強情になるのである。

周囲は何も彼を傷つけようとしてはいないのに、傷つけようとしていると被害妄想になる。

劣等感を持ったり、被害妄想になったり、虚栄心に苦しんだり、圧迫感を持ったりしている人は、自分の周囲の世界に橋をかける代わりに壁をきずいてしまったのである。

『変り者』といわれている人にも、このタイプは多い。

他人と違うように生きる反抗的な態度が、すでに世界と対立し、しかも世界に敗けていることを示している。