屁理屈禁止!主張は何かをやった後でいえ!!
食わず嫌いな人は、とにかく何でもいいから理屈をいわずに食べてみることである。
自己の世界と共同世界の裂け目を埋めるものは行動しかない。
ちょっと激しいいい方をすれば主張を捨てることである。
つまり、今までの主張というのは自分の存在の可能性の範囲を狭めていたものであり、その主張は単なる自己満足にしかすぎないからである。
たとえば、 狭い日本でゴルフなどやるのはもってのほかだ、上役と酒を飲むのなどゴマスリで嫌だ、俺はあんな卑劣なことはできない、マージャンは徹夜になり健康によくない、あそこまでつきあいをよくして出世したいかねえ、山登りは夜行列車が混むし、食事が不潔で嫌だ、ヨットなんていうのは金持ちの恥知らずのやることだろう、などといろいろと理屈はつくが、とにかく一切のこうした『自分の主張』を捨てることである。
女の人でいえば、サンローランの眼鏡をかけたりして、あの人高級なもので自分を飾っているだけよ、内容なんてないのよ、品物はブランドじゃないわよ、私は結婚なんてするつもりないわ、今のような世界で子供を生むなんて責任感ないわよ、私は独身主義者、とかなんとか、いろいろ主張もあろうが、とにかくそれを捨てることであ。
これらの主張の内容が正しいとしても、その内容を主張している本人の動機は全然ちがっているからである。
狭い日本でゴルフなどけしからん、と主張するのは、本当は自分がゴルフをできないでいるからであり、酒をくだらないと主張するのは、本当は自分がつきあいが悪くて出世できないからであり、マージャンが健康によくないというのは、本当は自分が仲間とのつきあいを楽しめないからであったりするのである。
自分の主張の内容が正しいということと、その主張をする動機の正しきとは関係がない。
サンローランがくだらない、という主張の内容がもし正しいとしても、それを主張する動機は、自分を他人と違ってより知的に見せたい、あるいは自分にお金がないことを弁護したい、ということかもしれない。
どんな女々しい動機からでも、男らしい内容の主張はできるのである。
共同世界と自己世界との間に裂け目ができてしまった人というのは、その主張の内容が正しいとしても、その動機は功名心であったり、恐怖であったり、臆病であったりする。
無気力な人間、強情な人間、ヒステリーの人間、虚栄心の強い人間、それらの人間に必要なことは理屈でなくて行動である。
もし何かをしようとしても止める理屈を見つけようとすればいくらでも見つかる。
そしてその理屈がどんなに正しくても、自らの存在は狭められ、圧迫され、空虚化されていく。
ゴチャゴチャいわずに、とにかく仲間とマージャンに行けばいいのである。
お金を賭けるのは卑しくていやだ、などといわずに、払える程度の額なら、何かに賭けようという友人にもしたがってみることである。
女子社員はお茶くみは奴隷と同じだ、男尊女卑(だんそんじょひ:男性の方が女性に比べて尊重され優位な立場にあること。またそのような態度、思想、風潮。)だ、などといわずに、とにかくお茶くみをすることである。
私はコピーをするためにこの会社にきたのではない、などといわずコピーをしてみることである。
たとえば三カ月なら三ヵ月と期間をきめて、その期間は一切の理屈を自分に禁止して、与えられた役割を引き受けてみることも必要であろう。
理屈は自己の世界と共同世界との裂け目が埋まってからでよい。
去る者は日々に疎し、という。
いつも接しているからこそ親しさが出るのであって、日常的に接しなくなり遠くはなれてしまえば、なんとなく親しみも少しずつ減るということであろう。
親しいからつきあいはじめるのではない。
つきあうから親しくなるのである。
食べる前に好き嫌いをいってはならない。
だが、 食べた後は好き嫌いをハッキリさせることである。
行動だけが重苦しい世界から自己を引きずり出してくれる。
人生が重苦しい人間にとって理屈は裂け目を深刻化するだけだろう。
理屈が大切になるのは共同世界と自己世界の険しい対立が解消してからである。