味方を敵に回さない

ほかの部門の人たちと一緒にしている会議などでは、それぞれの担当する業務内容に従って意見が分かれて、議論が白熱することがある。

自分の部下が意見を戦わせているときは、自分の考えと同じであれば、頼もしく見守っている。

しかし、ちょっとでも路線から外れることをいったら、すぐに介入しようとする人がいるが、非常に不利な結果になるので差し控えたほうがよい

自分たちの部門がチームとして一丸となっていないという印象を与えるからである。

 

どのような議論の場であっても、相手の目の前で内輪が一致団結していない点をにおわせるようなことをいうのは、自分たちの考え方の脆弱(ぜいじゃく)さをさらけ出すだけだ。

議論の内容はもちろんであるが、議論をする姿勢においても一枚岩である点を示さなくてはならない。

 

部下が話している内容に対して異論があるときは、部下が話し終えた後で、「補足」というかたちをとって修正するほうがよい。

そのようにすれば、部下の「体面」を傷つけることもない。

そのような配慮に対しては、部下としても心密かに感謝するはずだ。

上司に対して、さらなる「忠誠」を誓う気持ちになる。

 

特に自分のグループではない人たちの前で部下をけなす結果になることは避ける。

自分の部下に対しては全幅の信頼を寄せていることや、誇りに思っていることを誇示(こじ)するくらいがよい。

それに、部下を全面的に支持し、必要があれば援護射撃をする。

部下は味方であり、味方を助けるのは当然のことだ。

ところが、日和見主義(ひよりみしゅぎ:自分に都合のよいほうへつこうと、形勢をうかがう態度をとること。)の男は、相手が「敵」であれ味方であれ、常に自分の都合のよいほうに与しようとする。

 

同じ企業の上層部の人であれ外部の人であれ、権力を握っている人に対しておべっかを使うあまり、自分の部下を見捨てるようなことも平気でする。

部下は強力な味方であり、最後には最も近くにいて自分を助けてくれる人である。

味方をないがしろにしていると、いぎ修羅場にも等しい激しい場面になったとき、部下にも裏切られる運命だ。

味方ばかりだと思っていた背後から 「射たれる」羽目にもなる。

おべっかを使われていた人も、普段はよい顔をしているかもしれないが、いざとなると、その人間の浅薄さは見抜いているので、直ちに切り捨ててしまうだろう。

 

味方を味方として大切にしていない者は、最後には味方が一人もいなくなり、四面楚歌の状態になってしまう。

仕事の場であれば、上司や同僚や部下など一緒に働いている者は全員が味方である。

外部の人たちではあるが、取引先の人も敵ではない。

紛れもない味方である。

何か事があるときは、利害関係のある人たち、またはあった人たちを、かばったり助けたりする必要がある。

それが心の広さであり、さらに味方の「軍勢」を増やしていく結果になっていく。

この世に敵は一人もいなくなって味方ばかりになるのが理想である。

しかし、人間の欲はさまざまであり、あちこちで衝突するので、世にいさかいの絶えることはない。

 

そのようなときに、中立の立場をとって成り行きを見守るのも一つの方法である。

しかしながら、その争いの場に自分がよく知っている者がいるときは、その人の味方をして助けようとするのが人情に適っている。

それをしない人、ないしはすることができない人は、人情を解しないと同時に信念のない人である。

「義を見てせざるは勇なきなり」だ。

この義とは人の道であり、人情をも含むと解すべきである。

人を助ける勇気のない男は、男らしさを欠いた軟弱の見本の一つである。

助けを必要としている者がいたら、その場に突進していって救いの手を差し伸べるのが男の特質だ。

もちろん、助けを必要とする味方も、悪を押し通そうとしたり隠そうとしたりする場にあるときは、状況が一変する。

悪に加担するような手助けは、当然のことながらできない。

いったんは当人を糾弾(きゅうだん: 罪や悪事を起こした対象に対し責任を問いただして責めること)したり窮地に陥れたりすることにもなるが、その悪の要素に狙いを定めて、まず真相究明を図る。

その後で、その味方を悪の世界から救出する術を考えるのである。

そのようなことができる男は、最終的には味方から見て頼ることのできる味方であり、敵から見ても信頼のできる相手となる。

その場限りの人助けをするのではなく大きく人間社会の将来を見据えたうえで、味方のみならず敵に対しても役に立つことをしようと考えている。

そのような人が多くなれば、この世はもっと住みやすくなる。