考え方は人それぞれ

自分では気づかなくても、人間には必ず何かとクセがあるものだ。

話し方にもそれはがでている。

そのくせ者が会話に入ってくると、必ず話が一定の方向にまとめられてしまい、発展しない。

「ふつうそんなふうには考えないだろう」

「こんな仕事の進め方は絶対にしない」

「そうすべきじゃないと思うね、オレは」

このように、自分の「常識」を相手に押しつける話しグセである。

 

真実はたった一つで、それ以外の見方、考え方をハナから排除してしまっている。

その結論を人にまで強要しているのだ。

いったい、何を基準にそこまで言い切れるのか聞いてみたいものだが、こうした話し方をする人は決して少なくない。

周囲の人がそれを押しつけがましいと感じていることに、気がつかなければなるまい。

自分の意見を言うことと、それを人に押しつけることとは違うということを、肝に銘じよう。

 

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基準は人によって違うもの

人に自分の考えを押しつける人は、ほとんどの場合支配欲が強い。

相手を組み伏せ、意のままに動かそうとする。権力を持てばさらにその欲求は高まる。

自分の意見にこそ正義ここにありという顔をする。

実にいやな人間だ。

その「いやな奴」が、自分の中に存在してはいないだろうか。

たとえば、人に頼みごとをしたとしよう。

だが、できあがったものに納得がいかない。

「どうしてこうなるんだ。自分だったらこうしたのに」と言っていないだろうか。

あるいは「自分はここまで尽くしているのに、あなたは私に何をしてくれた?」と思うことはないか。

自分の善意、価値観、がまん、好みを人に押しつける人は、支配欲に心を曇らせ、相手の努力や意思、気持ちが見えなくなっている。

だから、不満だけが残ってしまうのだ。

このままでは、自分自身が窮屈になるだけだ。

自分の尺度でものを見るのをやめて、相手の尺度に目を向けてみよう。

何を基準に考えたのか、何をしたいと望んでいるのか、そう考えてみるだけで、視野はグンと広がるはずである。

 

「ありがたい」が「ありがた迷惑」になってしまう時

よき時代の下町人情が失われて、久しい。

芋がおいしく炊けたと言っては、おすそ分けを近隣に配る。

お返しに田舎から送られてきたみかんを二つ三つ手に持って、隣を訪ねる。

わんぱく坊主がいたずらをしたら、人の子であろうと諌める。

下町で交わされていたのは、おそらく、たわいもない善意だったと思われる。

ただ、善意が押しつけがましくなったら、それを言い合える環境にもあったのだ。

だからこそ、快適な共同体が築けていたのではないだろうか。

下町界隈の人情が、人間同士のつき合いの原点だと言われるゆえんである。

では、善意と、善意を超えた押しつけがましさの境界線を、どこに引くのか。

「難しいところではあるが、答えは単純な発想から導かれる。

自分の価値と人の価値は違うのだと知ることである。

たまたまお互いの価値が同じこともあるが、しかし、それを前提にしてはいけない。

「ありがたい」が「ありがた迷惑」になるのは、相手との価値基準の違いを見失った時なのである。

 

見返りは期待すべきではない

人間は勝手なもので、自分が相手にしたことはよく覚えているのに、相手からしてもらったことはコロッと忘れてしまうようだ。

この傾向が強い人は、自分が相手に「してあげた」ことばかりを言い連ねる。

「してあげたのだから、私にもしてくれるべきだ」というわけである。

たとえば、バレンタインデーの義理チョコ。

体裁や習慣で配ったはずなのに、ホワイトデーにお返しが返ってこないとどう思うか。

「義理なんだからお返しはいらない」とは考えない。

義理であったことはすっかり忘れ、「チョコ、あげたのに・・・」と慣慨するのではないか。

こんな心理は男性も同じ。

人間は、大なり小なり相手に過剰なギブを期待する。

「してあげた」のだから「してもらうのは当然」だと思うわけだ。

「してあげたい」という気持ちで行動しよう。

その結果「してもらった」ら、ラッキーなおまけだと思おう。

こうすれば、人間関係はもっとラクになる。