「自分だけ得したい」では、人は逃げていく
ある交流会に顔を出す若者がいる。
そんな交流会に名刺をたくさん持っていき、積極的にいろいろな人たちと交換する。
「毎月100枚交換する」などと目標を掲げている人もいるほどだ。
「バカか、お前は」といいたい。
名刺のコレクションをしているなら話は別だが、会場で何十人の人たちと名刺交換をしても、あとで、いちいち顔を思い出すなど難しいはずだ。
もちろん、異業種の人とつきあうこと自体は賛成だ。
熱心に交流会に参加している人の多くは、「人脈をつくりたい」という目的を持っている。
しかし、本当にいい人脈とは名刺交換くらいでつくれるものではない。
「財産は来るもので、つくるものではない」とへンリー・フォードはいった。
人脈という財産についても、まさに同じことがいえる。
人と人が、何かのきっかけで知り合う。
それは、すでに人脈の始まりだが、そんなことを考えないでいるほうが、お互いに役立てる存在になれる。
「楽しい人と知り合った」「素敵な人と知り合った」と嬉しく思っていれば、また会いたくなるし、相手が困っていれば手を差し伸べたくなる。
だからといって、そこに恩を着せたり、お返しを求めたりする発想はない。
それこそが、真の意味でのいい人脈だ。
ところが、交流会では「知り合った人から何か得るものがあるのではないか」と考える。
こちらが「何か役立たせてもらおう」と近づいた相手も「この人から・・・」と同じように考えている。
「目的が同じなら、お互い利益を与え合えるのではないか」と思うかもしれないが、それは甘い。
どちらも「自分が先に得をしよう」と考えているのだから、その距離が縮まることはない。
人は「知っている」だけでは動いてくれない。
ましてや、挨拶したこと、名刺交換したことなどに大した意味はない。
それをわかっていない人は、すぐに「知っている」自慢を始める。
「いま売り出し中の○○さんって、案外知られていないけど、すごい真面目な人で、お酒もタバコも一切やらないんですよね」
「この前、○○さんにお会いしたのですが、とても気さくなのでびっくりしました。これからのビジネスについてもいろいろ話をしてくれまして・・・」
あたかも、「自分はよく知っている」という話し方をするが、実は単に顔を合わせたことがあるだけだったりする。
こちらが「へえ、じゃあ、近いうちにぜひ紹介してくれないか」と具体的に話を進めると、「ええ、ちょっとまた」などとごまかし始める。
こういう人にとっては、人も作為の対象である。
「人脈づくり」という言葉が好きでないのは、そこに作為を感じるからなのだ。
作為的に人との距離を変えようとしても、相手はそう簡単に動いてはくれない。