公私とも「守るべき節度」をわきまえる

人を「いじる」のがうまい人がいる。

たとえば、テレビでの明石家さんまや恵俊彰などの司会者は、その典型だろう。

彼らは、コメンテーターとして出演しているタレントをときに笑いのネタにしても、その価値を下げることはない。

みんなが気づかないでいる、そのタレントの面白さを引き出したりするから、見ているほうも楽しいし、タレントからも好かれる。

彼らのように人のいじり方がうまい人は、いきなりズケズケと相手の懐に入っていくようでいて、越えてはならない一線をわかっている。

礼儀の距離感をわきまえているのだ。

単なるお笑いタレントではない。

人間としても立派だ。

「親しき仲にも礼儀あり」と昔からいわれてきたが、いまの若い人たちは、ここが弱いようだ。

 

ある20代の男性は、周囲の人から煙たがられているのを自分では気づいていない。

彼は自分のことを、明るくて人懐こい人間だと思っている。

たしかにその通りなのかもしれないが、どこかはき違えている。

私がはじめて会ったときも、ニコニコと愛想よく大きな声で挨拶してきた。

だから、私も気持ちよく対応した。

帰りがけには「じゃあ、これからもよろしく」といって別れた。

大人としての基本的な礼儀の範囲のことである。

ところが彼は、まもなく私に甘えてくるようになった。

「自分の〇〇を見てくれ」とか「いい〇〇を〇〇してくれ」などと図々しくいってくる。

しかも、友だちに対するような言葉遣い。

はっきりいってずうずうしい。

それが二度、三度と重なるうちに、「君とはそんなに親しい間柄ではないよ」とズバリといってやった。

どうやら彼は、こうしたことをあちこちでやっているらしい。

 

明るく元気に振る舞えば愛される、というのは勘違いもいいところだ。

周囲が暗に示している距離感を、彼はまったく理解できていない。

そういうことに鈍感なのだろう。

 

フランスの哲学者モンテーニュは、「夫婦の仲というものは、あまり始終一緒にい

ると、かえって冷却する」と述べている。この言葉には、国籍や性別を問わず、多くの人が賛成するはずだ。

なぜ冷却するかといえば、長くいればお互いに油断してだらしなくなり、相手がそこにいることすら意識しなくなるからではないか。

いつも自分中心で、そんな自分が相手にどう映っているかという配慮がなくなる。

ずうずうしく振る舞うようになった相手に幻滅するのは当然のことだ。

愛し合った男と女でさえそうなのだ。

友人関係や、まして仕事で知り合った人間に対しては、守らなければならない節度がある。

 

先日、びっくりするような話を聞いた。

20代の女友だちが数人集まってホームパーティを開き、気楽に鍋でもしようということになった。

みんなで楽しく鍋をつついていると、そのうちの一人が、自分の取り碗に残っていた汁をいきなり鍋に戻したというのだ。

残りのメンバーがギョッとしたのはいうまでもない。

思わず「アッ」と声を上げた人もいたかもしれない。

みんなの箸も止まったに違いない。

理由を問うと「碗の中の汁が冷めたから」と返ってきた。「いつも、家ではそうしているの?」と聞くと、悪びれることなく「そう」と答えたそうだ。

百歩譲って、自分の家ではそれが許されていたとしても、仲間の友人に対してやっていいはずがない。

まして会社の飲み会だったら、どうするのか。

汁が冷めてしまったのがイヤなら、流しに捨てに行けばいいだけの話だ。

これなどはマナー以前の問題だろう。

大人になった人間の礼儀作法ではない。

いったい彼女は、どんな家庭で育ってきたのかと思ってしまう。

 

礼儀やマナーというのは微妙な問題で、不作法はなかなか他人から指摘してもらえない。

だからこそ、自分で身につけていくしかないのだが、それができない人が多いようだ。

一度、自分の行動が人にどう思われているかを、離れたところから客観的に見てみることが必要なのだろう。

それをしないでいると、どんどんおかしなことになっていく。