自分が「自分の主人」になること~人間関係をつくる

今の若い人のつきあいについて「浅い」ということが一方の特徴であるとすれば、他方の極にある特徴は「罪責感と自己主張の欠如」とでもいうべきものである。

それは一口にいってしまえば、ノーというべき時にイエスといってしまうことである。

それは自分が自分の主人になれていないからである。

 

今まで述べてきたことを要約すれば、自分の私的な人間関係において、軽々に「同じ人間じゃないか」ということを主張して、自分と他者の位置関係を見失うな、ということである。

これから述べれば、自分は自分の主人であれ、ということである。

大切なことは、自分が自分の主人になろうとすることである。

そうすることによって人間関係のルールが見えてくる。

自分が自分の主人になれないで苦しんでいる人は、心の底で打ち勝ち難い何かを感じているに違いない。

その打ち勝ち難い何かのゆえに、人は自分が自分の主人になることに罪責感を感じる。

自分が自分の主人こなることは決して悪いことではないのに、何となく罪責感を感じるのは、それだけ自分の感情が歪んでいるということである。

 

このような人は、周囲からの要求に対してノーというべき時に、ついついイエスといってしまう。

そして周囲の不当な要求に屈したことで一層自分の中にノーといえない傾向を強めてしまう。

不当な要求に屈すれば屈するほど、ノーということにより強い罪責感を感じるようになる。

このような人も相手の要求にノーといってさえいれば、相手の不当な要求を受け入れなければならないような弱い自分をつくらなくてもすんだのである。

しかし要求をいやいやながらも受け入れ、それにしたがって行動してしまうことで、相手の要求にはさからってはいけないのだ、と感じはじめてしまう。

そこが実に不思議な人間の心理である。

相手の要求にしたがって行動をしたことで、相手の要求を規範化してしまうのが人間の心理である。

われわれが忘れてならないことのひとつは自信は自己主張から生まれる、ということである。

 

自分の人生をどう生きるかは自分が決めるべきことで、他人が決めるべきことではない。

自分を主張すれば、その結果のいかんにかかわらず自尊の感情を傷つけられることはない。

イライラしたり憂うつになったりという自己不完全感は、自己をハッキリと主張しないことによって生まれてくるのである。

ところが自己主張と他人との協調とは相いれないと間違って考えている人達がいる。

そこで、他人とのつきあいにおいて自己を主張することを避けるのである。

あるいは自己を主張して罪責感を感じているのである。