自分に「できること」からはじめてみよう

自分を実際以上に見せたいと思う人は多い。

僕も昔はずいぶん自分を実際以上に見せようとした。

しかし、この自分を実際以上に見せることの恐ろしさに気づいている人は案外少ない。

 

では自分を実際以上に見せることの恐ろしさは何であろうか。

それは、そのことによって実際の自分を自分が嫌いになるということである。

自分が貧乏であることを隠そうとする、自分がそれほど頭がよくないことを隠そうとする、自分がそれほどもてないことを隠そうとする、すると、貧乏である自分、頭のよくない自分、もてない自分を自分が嫌いになる。

われわれが生きていくうえで最も大切な自分への誇りが失われてしまう。

誇りを失ってしまえば、自分の持っている能力を使う機会を失うことにもなる。

われわれは自分の能力を使うことによって成長していくのである。

自分の能力を使う機会を失うということは自分の成長の機会を失うことと同じことである。

自分が自分であることの誇りこそが、精神的成長の条件である。

 

ある大学生がたいへん自信に満ちているように僕には見受けられた。

聞いてみると、自分の叔父さんに身体が不自由な人がいるという。

彼は暇を見つけると、その身体の不自由な叔父さんを車にのせてはいろいろな所に連れていってあげていた。

考えてみれば何でもないことである。

しかし何であっても、とにかく自分のできることをどんどんやっている人というのは自信に満ちている。

そして彼は、時間をやりくりして叔父さんをいろいろの所に連れていってやることで、彼自身が精神的に成長しているのである。

 

ある英語の本を読んでいたら Self-use という言葉が出てきた。

つまり、他人のために何かをするということは決して自分を犠牲にすることではなく、自分を使うことだという意味である。

現代人は他人のために何かすることをすぐに Self-sacrifice と受けとる。

しかし他人のために自分を使うということは Self-sacrifice ではなくSelf-use なのである。

そしてSelf-use できる人というのは、自分を尊敬できる人なのである。

 

さてここで大切なことだが、われわれは誰に向かって一番自分を隠したかを考えてみなければなるまい。

それは自分の親に向かってである。

僕は今の学生を見ていて、よくもここまで自分をいつわり通してきたものだと感心させられる。

「君は今何がしたいか?」と聞かれても、何がしたいかわからない。

主張すべきことは何もない。

二十歳になる人間が、主張すべきことを何も持たず、やりたいことが何もなく、ただ惰性で毎日を送っていることは、今までの生き方が根本的に間違っていたということなのである。

幸福であることは、自分のエネルギーの使い方を知っているということである。

何にも感動できない人は、要するに自分のエネルギーの使い方を知らないという人なのである。