会話をしても自分中心・自己中心的な話が多い人がいます。
あなたの周りにもこういった人っていないだろうか。
誰でも最も関心があるのは自分のことだ。
しかし、自分のことしか話さないとなると困る。
女子高校生同士が電車の中で話しているのを聞くともなしに聞いていると、「私ね、昨日・・・」「ああそう、私なんか、・・・」といった具合に、会話はキャッチボールにならずに、お互いに相手の話は聞き流し、自分のことばかり話していながら、それでもどうやら話は通じているらしい。
高校生くらいの年代なら、これでもいいのだろう。
しかし、いい大人になっても、自分のことしか話さないというのはどうだろうか。
こんな場面に出くわすことがある。
同じ幼稚園や学校に通っている子供がいるような母親たち数人で話をしている。
ある人がとにかくよくし ゃべる。
聞いていると、ほかの人が話すと、すぐにその話題を自分のほうで引き取ってしまい、「あら、私もそうなのよ」と言って、自分の話をはじめる。
ほかの人が、その日の本来の話題らしい、幼稚園の問題とか学校の問題を話そうとしても、「私のところはこうなのよ」と、自分のことばかりを話し続ける。
何人か集まっていると、必ず、この種の人が一人くらいいるものだ。
関心があるのは自分のことだけ。
自分が昨日したこと、子供がしたことなど、まったく関係のない人相手にも話し続ける。
そんな人がいるものだ。
たしかに、この種の人は女性に多いようだ。
しかし、最近は男性でも、こういうタイプが増えている。
いわゆる話し好きの一種だが、話題が自分と自分の周辺のことだけというのが大きな特徴だ。
たとえば、職場でこんな話をとうとうと話す人がいる。
「実はねえ、昨日、女房が病気でね。おれが夜、子供の面倒を見たんだよ。するとね、子供が言うんだ・・・」「さっき、おもしろい人物にあったよ。僕が昔お世話になっていた人でね。その人とは、十年ぶりなんだけど・・・」「おれの祖父は九十二歳で死んだんだけどね。とてもよい人で・・・」
このようなことを、仕事帰りに一杯やっているときではなく、社内で同僚の前で話したりする。
話を聞かされる人は、仕事と関係のある話になるのかと思って待っているが、その様子はない。
結局、自分の話で終わってしまう。
この種の人は、目上の人が相手でも同じだ。
たしかに目上の人と話しているときなどは、相手の話をさえぎれないことがある。
そのような場合、話が途切れるのを今か今かと待っている。
そして、途切れたとたんに、自分の話をはじめるのだ。
この人たちが話すのは、自慢とは限らない。
失敗談だったり、滑稽な話だったりする。
この種の人には、話し好きが多く、話が上手な人も多い。
だから、時には、聞く人もおもしろおかしく聞いていられる。
もちろん、この種の人も、話し相手に「あなたは、昨日何をしてた?」などと聞くことはある。
だが、それは、そのあと、「私は、昨日、………していた」と言いたいための前ふりでしかない。
「あなた、どこか、外国に行ったことある?」などとこの種の人が言い出したら、もちろん、「私は….に行ったことがある。そこでね……」という話のはじまる前兆だと考えてよい。
前ふりがある人は、はじめから自分の話をするのは失礼だと思う気持ちがあるだけ多少はマシだとは言えるだろう。
だが、仕方なしに相手に聞いてあげていることに違いはない。
もちろん、この種の人は相手の話に関心があるわけではない。
関心は、自分、及び自分の周囲のことに限られている。
だから、相手が話していても、ほとんど耳を傾けていない。
自分がしゃべりだす機会を狙っているだけなのだ。
つき合いはじめてすぐのころは、この種の人に対して、多くの人が、何と社交的で楽しい人なんだろうと思う。
それに、少しだけ聞くには、楽しめることもある。
だが、毎回毎回、自分の話しかしないと飽きてしまう。
この種の男は、女性から見ても、はじめのうちはおもしろい人に見えるかもしれない。
だが、つき合ううちにだんだんと本人が自分のことにしか関心がないのがわかってくるものだ。
当然、そんな男は今時の若い女性には見抜かれる。
逆に、この種の女性は、男から見ると「私ね……」と自分のことをいろいろ話してくれ、自分に打ち解けてくれているように見え、かわいらしく思えるかもしれない。
だが、この種の女性は自分のことにしか関心がなく、もし、そんな相手と一緒になったら、ほとんど亭主のことには関心をもってくれないし、面倒を見てもらえないと覚悟したほうがいい。
言うまでもなく、対話は、相手を理解しあい、交流し合うことによって成り立つ。
この種の人が愚かに見えるのは、その基本を理解していないからだ。
話し相手を、舞台の観客であるかのように考え、自分をアピールすることばかり考えている。
これでは、コミュニケーションは成り立たない。
だから、はじめはおもしろい人と思われることがあっても、結局は嫌われ、愚かだと思われるわけだ。
この種の人は、ナルシストと言える。
まず自分をこよなく愛している。
家族は、自分の延長として愛しているのだ。
家族のことなどを自慢したりするのは、一見家族を愛しているように見えるが、むしろ、本音はこんなにいい家族をもっている自分を自慢しているのだ。
いずれにしろ、人は他人のことも他人の家族のことも、ほとんど関心はない。
まあ、恋人同士が自分のことを言い合っている分には、お互いに多少相手のことに関心があるだろうから、
許されるのだろう。
そのような、相手の言うことをまったく聞いていないで、話が通じていると思い込んでいる、女子高校生同士の会話をしているようなカップルが多いのではなかろうか。
それで結びついて後はどうなるか、それはその後のお楽しみだろう。
周囲の人の対策
つき合っている相手が自分のことしか話さないような男なら、すぐにつき合いをやめたほうがいい。
そんな男はナルシストで、自分のことしか考えない。
逆に、つき合っている女性がそういうタイプの場合が問題だ。
女性には、多かれ少なかれ、そういう傾向があり、相手に自分のことをもっと好きになってほしいという気持ちが強いからだ。
だが、できれば、あまりにその傾向の強い女性からは逃げ出したほうがいい (ただし、男には、そんな女性ほどかわいく思えるバカさがあるから、さて、うまく逃げ出すことができるかどうか)。
職場などにいる、その種の人には、さっさと、「そんな話には関心がない」ということをわからせる必要がある。
そのためには、その人が話しはじめたら、話をそらすことだ。
その種の人がよくやるように、「そういえば、私も.…」とさえぎって、別の話にもっていくことだ。
自覚するためのワンポイント
まず、他人の話に耳を傾けることを心がける必要がある。
そのためには、他人の話に興味をもつことだ。
実は他人の話というのはおもしろいものだ。
その人がどんな考えなのか、どのような思いで生きているのかが、話を聞いているうちにわかってくる。
そのような他人の話を楽しむ心をもてば、それほど自分の話をしなくなるだろう。
それでも自分の話をしたかったら、私は文章を書くことを勧めたい。
エッセイを書く人というのは、基本的に自分のことを多くの人に語りたいという衝動をもっている人だ。
文章を書けば、自分ひとりの話を誰にもさえぎられずにできる。
それを誰かに見せたいのならば、インターネットのホームページや何らかのウェブページ、雑誌などに投稿するとよい。
そこで思う存分、自分の話をしても、別に誰にも被害を与えない。
それがおもしろい話なら、たくさんの人を楽しませるはずだ。