「話すのはここまで」の線引きを守る

本当の雄弁とは、必要なことは全部しゃべらず、必要以外は一切しゃべらぬことだ。

昔から、洋の東西を問わず、おしゃべりを戒める教えがある。

日本でも「言葉多ければ口のあやまち多く、人に憎まれ、わざわい起こる。つつしみて多く言うべからず」という言葉がある。

私たちが一度口にしたことは、引っ込めることができない。

人との距離感を考えるときに、このことを忘れてはならない。

 

ある30代の女性が、10年ぶりに大学時代の同級生と4人で会った。

一緒に食事をして、学生時代と同じようにバカ話をして、楽しい時間を過ごしたつもりでいた。

ところが帰り道に一緒になった友人から「あれ、まずかったんじゃない?○○は傷ついていたみたいだよ」と、一人の友人の名前を出された。

指摘されて、やっと気づいた。

「ボトルで注文して飲み残すともったいないからグラスワインにしよう」と提案した友人に対し、「ヤダ、そんな貧乏くさいこと」といってしまった。

その友人は、そのときあまり金銭的に余裕がない状態だっただけにグサッと胸に刺さってしまったのだ。

学生時代は、お互いに冗談ですんだことが、状況が変わればそうではなくなる。

 

「ずいぶん太ったんじゃない?」

「いつまで、そんなバカなことやっているんだよ」

「あなたが騙されているに決まってるって」

「よく、その給料で我慢していられるな」

こちらに悪気はなくても、人によっては大きく傷つく言葉がたくさんある。

 

よく 「こういうことをいって悪いんだけど」と前置きしてから、相手が不快に思うことを話し始める人がいる。

「悪いと思っているなら話しなさんな」といいたい。

前置きをしたから免罪符が与えられると思ったら大間違いだ。

どんな前置きがあったとしても、いわれたほうは傷つくし、いったほうは「無神経」の烙印を押される。

そんなことを、あえてしないのが大人である。

その場にいない人のことを話すときも注意したい。

 

「いっちゃ悪いけど、あいつってさ・・・」で始まる会話に愉快なものはない。

聞いている人は一応相槌を打ってくれるが、それは心の底からの同意ではない。

「この人、陰で人のことをこんなふうにいっているんだ」

「ちょっと距離を置いたほうがよさそうだ」

などと、軽蔑しているかもしれない。

 

もちろん、いわなければならないこともある。

しかし、「これはいっておきたいが、ここまでいってはいけない」という判断ができないようでは困る。

いわれた言葉をどう解決するかは、人によって違う。

一人の人がひどく傷ついたからといって、みんながそうなのではない。

逆に、ある人が面白がったからといって、誰もが好意的な反応を示すとは限らない。

実際には、ボールを投げてみて相手の反応を見るしかない。

「この人は、こうとるだろう」と考えていても外れることが多い。

最初は優しいボールを投げて、そこで反応がよくなければそれ以上のボールは投げないことだ。

 

言葉は、メールや手紙のように形には残らない。

だから、つい油断して簡単に口にしてしまう。

しかし、実際にはメールや手紙よりも深く心に残る。

それは、本人が「口をあけて」いっていることであり、本音そのものととれるからだ。

メールや手紙なら「あのときは、理性的な判断ができずに間違ったことを書いてしまいました」という言い訳も、少しは成り立つかもしれない。

しかし、言葉の場合、そうはいかないということを知っておく必要がある。