何のための努力か
その子は、四歳の時、父がなくなったという。
そのころからすでに「手のかからない子」と母はいっている。
学校にいけば成績は優秀で、先生は「何ひとつ欠点のない子」と驚いたという。
成長するにしたがい、母子の結合はいよいよ強まっていったということである。
ますますその子は、母が自分に託している夢を感じとるようになる。
つまり、父のように立派な人になる、ということである。
彼は学業成績を高めるために、ひたむきな努力をしたという。
この子はやがて、うつ状態になっていくのであるが、まず考えるべきことは、この子の勉学への姿勢は決して本当の意欲から出ていないということである。
勉強してやろう、立派になってやろう、と自分が願い、そしてふるい立っているのではない。
この子のすべての活動は意欲からではなく恐怖から出ている。
母の自分への期待を感じとり、そしてその期待を実現しなければ母に気にいってもらえないという恐怖から、この子は勉強しているにすぎない。
この子は努力をおしまなかった。
しかしそれは、母への依存性が、そうさせたにすぎないのである。
母から息子への要請、それは社会的評価向上の要請である。
そして息子は母への依存が強ければ強いほど、この要請を心理的に絶対なものにしてしまう。
彼がその要請にしたがうのは、母に心理的に依存しているからである。
彼は母親との相互依存的密着を支えにして生きているのである。
母から「ダメな子」と思われることが彼には最も恐ろしい。
母子の結合は強固であるが、その条件は、子供が母の要請を受け入れる限りにおいて強固であるというにすぎない。
したがって彼は努力をおしまなかったが、それは恐怖にかられて努力していたのである。
決して彼にとって楽しい努力ではなかったし、また底力のある努力でもなかった。
母の要請、父親のように立派な人間になることは、彼を絶え間ない競争にかりたてた。
しかしそこには心理的ゆとりなどどこにもなかったはずである。
あなたは今、何のために努力しているのか、そのことを一度考えてほしい。