何をやりたいのか、はっきりしない時にも方法がある
学校という枠組みが自分が燃えるのにもう適さなくなったと感じるならば、書を持って街に出るのもいいだろう。
学校は決して建物ではない。教室だけではない。
今、失われてしまったのは、行動しながら学び、学びながら行動することではないだろうか。
図書館で勉強するということだけが勉強することのイメージになってしまってはいないだろうか。
書を読むことと行動することとが別々になってしまう時、市民運動も結局は住民エゴに終るしかない。
『私、書を読む人、あなた行動する人』と分野が別れてしまったのでは、書を読むことも、行動することも意味を失う。
そして書も読まず、行動もしないで、マンガを読む人が出てきてしまった。
たとえば、大学に入ったら高等学校までと勉強の仕方を変えることである。
何をやりたいのか、それすらハッキリしない自分をどうするか、まずそこから出発しなければなるまい。
それには、クラスでこんなことをどなってみるのもひとつの方法である。
もう受験勉強と同じ勉強をするのはイヤだし、皆で何かしよう。
するとおそらく無関心にシラーと君を見つめる者がいるだろう。
気の変になったのがいると思って無視する者もいるだろう。
そしたら、その人のところに行って、ぶんなぐってやれ。
相手は怒るに違いない。
『何をするんだ、僕は暴力に反対だ』というに違いない。
そしたらその人に聞いてみるがいい。
『お前は、こんなつまらない人生で、それでもいいのか?』と。
『何をやりたいのか、と聞かれて、何も答えられない俺達で、それでいいのか?』と。
そして皆で話しあってみるのだ。なぜ自分達は今ここにいるのか。を
『俺は本当はこの大学にきたくてきたのではない。○○大学を落ちたからきたのだ』
『俺は小さい頃から両親にほめられるのが嬉しかった。どうしても親の期待にそむけなかった。この大学は親からすすめられたんだ』
『この大学にきたのは本当は何の理由もないんだ、自分でもわからない』
『私は女なのに、美人でないのがくやしくて勉強したわ、男を見かえすために。』
『俺は小さい時、そういえばラグビーをやりたかった。』
何を話さねばならぬということはない。
親のこと、女のこと、何でもいいのである。