仲間は少なくてもよいか
人気者は孤独なもの
会えば楽しく一時を過ごす、年に一、二度は会う、暑中見舞いや年賀状のやりとりはする、電話では始終話すが、会う機会は少ない。
こういうつき合いは多い。
親兄弟や子どもの頃からの友人でもなかなか会えないことが多く、疎遠になりがちである。
一期一会という言葉もあるほどだから、一時一時の出会いを大切にしたいものである。
それに、たまには大勢で集まって、にぎやかにやるのも悪くはない。
しかし、よくよく考えてみると、人間は生まれた時も死ぬ時も一人なのである。
そばにだれかいないとさびしくて仕方がないという人も少なくないが、ちょっと冷静に考えてみれば、本当に理解し合える人はごくわずかであることに気づくであろう。
功成り名遂げた人、著名人、アイドル、人気者は、常に大勢のファンや支持者などに囲まれているから、ここでお話しした孤独を味わうことはないように思えるが、そんなことはない。
多くのファンをもつということは、ある意味で幸せであるかもしれないが、よけいに「孤独」を味わうことになると思う。
人間性心理学の開祖A.H.マズロー博士は、欲求理論と自己実現の研究で知られている。
博士によれば、自己実現とは人間の究極の欲求であり、精神的に最も充実した幸せな状態をいうのだが、
「自己実現者は、特に深い結びつきを、どちらかというと少数の人々ともつということがいえる。友人の範囲はかなり狭い。彼らが愛する人々は、数においては少ないのである。これは部分的には、このような自己実現的な仕方でだれかと親密であるためには、時間を必要とするからである」
とその著書「人間性の心理学」(産能大学出版部刊)の中で述べている。
また、孔子の言葉にも、「己に如かざる者を友とすべからず」というのがある君子(立派な人)は「孤高」に耐えなければならない。人(つまらない連中)に
レベルを落として迎合する必要はない、ということであろう。
平等主義者にいわせれば、何か威張ったような、人を見下したような態度に映るかもしれないが、そうではない。
人づき合いとは本来、厳しいものであるということだと解釈している。
心の友は一握りしか残らない
実際に、親も教師も指導者も孤高を忘れて、子どもや生徒や部下のご機嫌をうかがっているところに、現代社会の混乱の一因があるような気がする。
また、切瑳琢磨という言葉もあるように、低レベルのところでお茶を濁していたら、進歩も成長もあり得ない。
堕落あるのみである。
だから、マズローの言葉も孔子の言葉も対人関係の核心に迫るもの、本質をついていると私は確信している。
尊大に構えて人を寄せつけない、というわけではない。
しかし、50代以降の人づき合いは、無理に自分を曲げてまで仲間を増やす必要はないということだ。
いや、それも身構えてそうせよというわけではない。
「自然体」でいいのである。
ごく自然に、ゆったりと構えて、あなたに魅力を感じて集まってくる人を拒まず、かといって、別にお愛想をいって無理に仲間に引き入れようとする必要もない。
それで先方が何かを感じて去っていくなら、それは追わない、こんなふうにしていると、本当の「心の友」はごく一握りの人になってしまうのである。
じつはそれでよいのである。
もし何か志を立てて、人集めをしたければ、その目的のために集まってくれる人に協力してもらう。
しかし、その目的を達すれば、また思い思いの方向へ散っていく。
そういうプロジェクトチーム、ないしはドラマづくりのグループを編成すればよいのである。
その仲間たちをいつまでも綿々と追い続け、ベタベタと寄り添うということは、結局は気まずい別れが待っていても不思議はない。
考えてみれば、会社というのは、ある経済行為を達成するための一時的集団に過ぎない。
それを運命共同体のように思うほうが不自然だったのである。
それは、この資本主義体制に、封建社会の藩と領民のような関係をもち込んだためではないかと思う。
そう考えれば、会社も上司も同僚も取引先も、ある条件の下における結びつきに過ぎなかったのであり、一個人に戻れば、バラバラの存在になっても仕方がないのである。
もちろん、そういうドライな結びつきの中から、終生の友ができることもあり得るのであり、それを拒む必要はない。