周囲に自然に人の輪ができるタイプがいる。
仕事ぶりも容姿も特に傑出しているわけではないのに、なぜか、みんなに好かれる。
その秘密はどこにあるのだろう。
彼らは、自分が好かれようとするより、自分の周囲を好きになろうと努力しているのではないだろうか。
誰でも「好かれたい」という思いは強い。
しかし、好意を求めて待つだけというのは、怠慢であり倣慢(ごうまん)である。
そんな人間が好かれるはずがない。
まず自分が相手を好きになり、相手の幸せを思いやることである。
友人でも、会社の同僚でも、趣味の仲間でもいい。手始めに誰か一人を好きになり、その関係を大事にする。
いい人間関係はそこからスタートすると言っていい。
だが、誰からも好かれる必要はない。
今いちばん大切だと思う人に、精一杯の情を向けるだけでいい。
人を思えば、人に思われる。
そういう人間心理の基本を実践していれば、人の輪はいつか広がっていく。
悩みを聞いてくれる人、仕事にヒントをくれる人、力を貸してくれる人。
あなたに「まかせとけ」と言ってくれる人は、そこから生まれてくるのである。
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「好きな人が友人」でいい
人間は、いくつかの塊の中で関係を結んでいる。
会社という塊、学校という塊、育児サークルなんて塊もあるだろう。
家族、親族の塊もある。
近所づき合いも塊の一つだ。
こうした塊の中のすべての人とうまくやっていくのは、それほど簡単なことではない。
会社なら、いやな上司からの命令を受けなければならないだろうし、好きな相手と結婚しても、その親族までを愛せるとは限らない。
新しい家へ引っ越しをしたら、どうにも印象の悪いご近所さんとつき合うハメになったりもする。
環境を選ぶのは自分だが、そこに存在する人間まで選ぶことはできないのである。
人はこうして人間関係を選ぶ。
摩擦が起きないよう、被害を少なくする努力をしながら、感情をコントロールして生きている。
かといって、いつも息苦しいかといえば、そんなことはない。
気の合う相手を選び、親密さを築いているからだ。
そう、塊の中でも、人に平等に接しなければいけないということはない。
「好きな人を選んで、大いに結構。感情を優先してまったく問題はない。
それが友人を選ぶ基準である。
○嫌いな人間がいて当たり前
「やさしくていい人間」でありたいと願うのは、悪いことではない。だが、そのあま
り、自分を失ったら、元も子もないというものである。
確かにやさしさは、人間のもっとも美しい資質かもしれない。
しかし、だからといって、いつでも誰にでも、やさしくなんかできないのが、これまた人間なのだ。
ちょっと気分がいらだっている時に声をかけてきた人に、キツイ対応をしてしまったとしよう。
そこで「ああ、自分はなぜ、やさしくできなかったんだろう」と自分を責める人がいるが、そこまで自分をがんじがらめにすることはないのである。
ムリをすれば苦しくなるだけだ。時には声を荒げたり、ぞんざいな態度をとったっていいではないか。
世の中には嫌いな人間もいれば、悪意を持った人間もいる。
「聖書は「汝の敵を愛せよ」と言うけれど、その理想に近づこうとする意思が尊いのであって、現実に全人類にやさしく接することなど、簡単にできることではないのだ。
やさしさも愛も、自分らしく、自分流を貫けばいい。
「らしさ」からはずれたことをするから、元気がなくなってしまうのではないだろうか。