活動する人は、いつもハツラツとしている

われわれは仕事中にくつろげれば、どんなに仕事しても疲れるものではない。

疲労で半病人のようになっている人は、決してやった仕事の量が多すぎて半病人のようになったのではない。

何事にもビクビクして、緊張していたために疲れたのである。

肉体の使用よりもストレスが人を疲労させることを忘れてはならない。

 

このようなノイローゼ気味の人がやるべきことは、親からの心理的離乳である。

親から可愛がられた人は、親から離れていかれるが、親に気がねし、親の顔色をうかがいながら育った人は、なかなか親から離れていくことはできない。

親を喜ばすことだけに気を使ってきたような人は、なかなか親から離れていかれないものである。

親に甘えられた人は成長していかれるが、逆に親の欲求不満のはけ口となってしまったような子供は、精神的に成長できない。

親が子供に甘えたようなものだからである。

子供の心は怖くてすくんでしまっている。

すくんでしまっていて、一切の精神的活動が行なわれていないのである。

もしたがって、そのような人は豊かな心を持ち得ない。

 

音楽を聴いても、素晴らしい景色を見ても、偉大な書物にふれても、心の暖かい人に接しても、何をしても感動するなどということがない。

もちろん、趣味などもない。

恐怖ですくんでしまった精神に、何ができるというのであろうか。

外界の何事にも興味が持てず、些細な身体の変化に気を奪われ、不安にさいなまれて生きるより仕方がない。

結局、神経質な人は、決め込む以外に生きようがないのである。

 

このような人は、ガツガツと生きているので、生きることを「楽しむ」ことができない。

「楽しむ」ということは、そこに集中しているということなのである。

体を固くしているということは、先に述べたようにそこから逃げ出そうとしているということである。

そういう人はスポーツを楽しむことも、仕事を楽しむこともできない。

楽しむことができれば、決め込む必要はないのである。

「俺はこの仕事は苦手だ」と決め込む必要はない。

「俺は人づきあいがうまくいかない、社交ベタなのだ」と決め込んでしまうのは、その日その日を楽しむことができないからである。

「楽しむ」ということは、偉大な精神のゆとりである。

精神的活動が生き生きとしているということである。

 

子供のころ親への恐怖で精神がすくんでしまって動けなくなっている人は、何をやってもそこに興味を見出すことはできない。

ヘビににらまれたカエルが体がすくんで動けなくなるように、情緒も、眼には見えないが、恐れているものに出会うとすくんでしまうものである。

人と一緒にいると、気がねしてくつろげないなどという人も、やはり小さいころから情緒がすくんでしまって、さまざまの情緒的な活動ができてこなかった人であろう。

小さいころ過度に親の顔色をうかがって育った人は、大きくなってからも、他人のなかに自分を恐怖させるものを見つけ出してくる。

見つけるというよりも、他人との関係のなかに恐怖心をつくり出してしまうのである。

そして何度もいうように、この恐怖が人を緊張させ、緊張がその人を疲れさせる。

楽しみながら仕事をしている人は、仕事そのものがむしろ休養になっているはずである。

 

今の若い人達はいつもシラケているが、彼らは昔の若者よりもっと活動したから疲れたような顔をしているのであろうか?

決してそうではあるまい。

むしろ活動量の多い人の方が元気ハッラツとしている。

そして、あまり仕事をしていない人の方が、いつも疲れた顔をしているものだ。