やること(行動)を生き甲斐につなげるには
シラケていてやりたいことがない、ということは、できることがない、理解していることがない、というにすぎない。
おそらく政治でも同じではなかろうか。
政治的無関心というのは政治がわからないからである。
仕事というのは打ち込めば打ち込むほど面白くなる、という性質のものである。
面白いから打ち込むのではなく、打ち込むから面白くなるのである。
組合活動も、面白いからやるのではあるまい。
活動をやるうちに面白くなる、という性質のものであろう。
ところが、生き甲斐を持てない人の決定的な欠点は、やる前から面白さを求めるということである。
つまり、やるから面白くなるのに、面白いことがあればやろうとしていることなのである。
なぜ日記をつけるのかは、日記を十年つけている人が一番よく知っている。
しかし生き甲斐を喪失している人の態度は、日記をつける前に、なぜ日記をつけるのかを知ろうとすることである。
つまり生き甲斐について大切な第一の点は、意味は理解から生まれる、ということである。
ところが、われわれは往々にして理解より先に意味を求めるから、生き甲斐を失うのである。
それが数学であれ、ゴルフであれ、音楽であれ、仕事であれ、何であれ理解してきてからはじめて、それをやっていることに意味を感じはじめるのである。
政治も同じである。
知らしむべからず、よらしむべし、というのは、人びとの自発的エネルギーを期待するなら決定的な間違いである。
また同時に、政治に無関心な人は、自ら政治にコミットしようとしていないから、政治がつまらないのである。
状況を十分に認識できないなら、それは面白くない。
つまり意味を感じさせる理解がないのだから。
ところが、もうひとつ厄介なことは、『われわれ市民は無力だ』という感覚である。
状況が認識できたとしても状況を左右する手段を持っていないという感覚である。
政治的知識はどんなに持っても無力だ、という感じ方である。
だからこそ、政治的な主張をのせた雑誌は買わなくても、ジュノン、アンアン、ノンノ、女性自身、明星は買うのである。
女性雑誌でパリ特集をやればそれは売れる。
買えばパリに行く人には実際の役に立つ。
それらの雑誌が与えてくれる情報は力の裏づけのない政治情報とはことなる。
そしてパリにすぐ行こうとする人ではなくても、それらの雑誌は夢を与えてくれる。
残念ながら政治的な主張をのせた雑誌は、夢も、カの裏づけのある情報も与えてはくれないと市民は感じている。
政治というのはやっかいなものだと思う。
意味は理解から生まれる。
政治は参加しなければわかりにくい。
だから参加していない者は政治がわからず無関心になりがちである。
人々は今、力の裏づけのある知識を求めているという点からいっても、なかなか政治に関心を持たせるのは難しい。
この難問を解決するひとつは、『歴史の目的』を理解することであろう。
第一インターナショナル(一八六四年ロンドンで創立された世界最初の国際的な労働者の組織)も出発の時は小集団であった。
しかし集団の小ささは、そこに集まる人々に決して無力感を与えなかったという。
その時点で力がなくても論議を空しいとは、そこに集まった入は思わなかった。
いやまさに逆で、そこに集まったすべての人は、未来に向って有効に自分達は準備していると感じていた。
パリコミューンの戦士たちは英雄的に生きられるかどうかは、自分達のやっていることは歴史の流れにそっている、未来は自分達のものだと信じられるかどうかである、といっている。
牢獄に入っている者の不平不満についての調査がある。
重労働をさせられている者が不満で、そうでない者が不満でない、などということは決してない。
労働の量と不満の大きさとは関係ない。
『もうじき出られる』そう思っている者は、重労働にも不満なく耐えられる。
未来を信じられるかどうかは、人間の志気に決定的な影響を持つ。
つまり、生き甲斐について大切な第二の点は未来を信じることができるか、できないか、である。
生き甲斐喪失の時代に、不確実性の時代という言葉がもてはやされたのは故なしとしない。