嫌う態度をとるから、それに気が付いて相手も嫌うことになる

人間には本能の嫌いなものから遠ざかろうとする本能がある。

たとえば、テレビを観ている時、私なら画面にへビが映ったら目をそらす。

嫌いなタレントがアップで登場したら、思わずチャンネルを変える人もいるだろう。

料理に混じった嫌いな食材を脇に寄せるのも、同じ本能である。

 

日々の人間関係の中にも、もちろん同様の本能は働く。

違うのは、相手は生身の人間であり、遠ざかろうとする気持ちがダイレクトに伝わってしまうことだ。

「嫌われている」と悟った相手は、どんな行動に出るのだろうか。

たいていの人は、傷つかないためにバランスを取ろうとする。

(うと)まれたのと同じだけ、自分からも距離をおこうと考えるのだ。

もし自分に対して、視線を合わせない、話にあいづちを打たない、よそよそしい、という人がいたらそれは、自分自身の態度を映し出す鏡だと知ろう。

嫌いな人には、好かれないのである。

好かれぬまでも、さざ波の立たない関係を望むなら、まず自らの態度を振り返ってみればいい。

 

Contents

悪口は自分が疲れるだけだ

悪口、陰口が好きな人がいる。

会話を交わせば、必ず「彼にはだらしがないところがある。きっと女性問題で失脚するよ」「あいつの営業力じゃや、成績なんか上がりっこない」などと他人をおとしめるフレーズが登場する手合いだ。

当人は「それに比べて自分は、、」と、すぐれた自分、素晴らしい自分をアピールしているつもりかもしれないが、そうは問屋がおろさない。

この種の人々に下される評価は「誰の悪口を言うかわからない、信頼のおけない奴」というものだからだ。

そう、悪口は他人をおとしめるのではなく、実は自分をおとしめるのである。

悪口の背景にあるのは多くの場合、劣等感だ。

モテない自分を感じているから、モテる人を「だらしない」と批判してバランスを保つ。

営業力のなさがわかっているから、誰かを自分より下だとけなすことで自己満足にひたるのである。

しかし、いくら声高に叫ぼうと、モテない自分、仕事ができない自分は変わらない。

周囲から人が離れていくだけである。

悪口を言ってみずから疲れる愚はやめよう。

 

自分の「加害状況」を検証せよ

無意識に、人を傷つけてしまっていることがある。

なにげないひと言が、相手のプライドにグサリと突き刺さったりするケースだ。

もっとも典型的なのが、子どもを叱陀激励(しったげきれい)するつもりの「しっかり勉強しない!お父さんみたいになっちゃうわよ」といういいぐさだろう。

槍玉(やりだま)にあげられたお父さんは、たまらない。

奥方に悪意はないのかしれない。

ちょっとしたもののたとえに、お父さんを拝借しただけということなのだろう。

しかし、お父さんのプライドは粉々に砕け散り、さらには父子関係にも確実にヒビが入る。

だが、これはほんの一例だ。

ビジネス場面でも友人関係でも、恋人同士の間でも、プライドを傷つけるなにげないひと言を発していることは少なくないのである。

受け取る相手の立場になって、自分の言葉を検証してみる。

そんな姿勢がいい関係、よりよいコミュニケーションの礎になるのである。