面白さややり甲斐はやった後についてくる
今、人々は、何かひとつ欠けたような、心の空しさを味わいながら生きているのではなかろうか。
自分の行動のどれをとってみても、明確な目的を欠いている。
大学に行く学生も大学で何を学ぶべきかをハッキリとしてから大学に行くわけではない。
ただ何となく漠然として大学に行く。
皆が行くから自分も行く、兄さんが行ったから僕も行く、友達も行くから自分も行く。
そして大学に何の目的もなしにやってくる。
また大学に何も期待しないでやってくる。
ただ大学の授業に単位だけを期待してやってくる。
それは大学にくる学生ばかりではないだろう。
会社に行く人も同じだろうし、結婚する人も同じであろう。
何となく、ただ何となく、風が吹くように、水が流れるように何となく暮している。
時々は生き甲斐がほしいと思う。
しかし何かを新しくはじめる気力もなく、今日も明日も何となく過ぎていく。
生きているというよりも、何か水の中をただよっているような生き方をして、人々は暮している。
生活ができればそれでいい、という無気力な生き方。
もちろん、何か面白いことがあればやりたい、と思っている。
しかし人間にとって、やる前から面白い、などというものは、はじめてみても永続きするものではない。
そんなものは安易なものに決まっているから、すぐ退屈してしまう。
人間の興味や関心ややり甲斐や、そういったものは、何かをやっているうちに出てくるものであって、何かをやる前から感じるものではない。
テニスが面白いのはテニスをはじめて、テニスがわかり出してからであろう。
テニスをやりはじめてある時期、とにかく面白いという時がある。
それは、ラケットをこう振ると、こうなって、ああなって、こういう球が出るとわかってきた時であろう。
ゴルフだって同じである。
面白いのは九ホールを五十をきるくらいの時だという。
つまりだんだんと球の打ち方がわかってきた時である。
なるほど、ここでヒザをつけて、ここでクラプを振り抜いて、こういうフィニッシュになると、球はまっすぐ飛ぶ、などとわかり出すと面白い。
それはスポーツばかりではない。
英会話だって同じである。
何だかアメリカ人のいっていることがサッパリわからない、という時、会話の勉強は苦痛である。
ところが、アメリカ人の話すことが少しわかり出すと、もっとわかりたいと思い、急に面白くなる。
それに自分の考えていることが少しでも英語で表現できるようになると、急に英語をしゃべることに興味が出てくる。