とにかく歩きながら考えることが先決だ

劣等感というのはきわめて危険な感情である。

劣等感があると、素直に周囲の価値を認められないから、どうしても『そんなことくだらない』といういい方がふえる。

その結果、活動範囲が狭くなり、自己のカラの中に関閉じこもり、次第に無気力になっていく。

何をするのも億劫になってくる。

しなければならないことまで、ついついのばしてしまう。

 

やがては人に誘われても、どうしても、どこにも行く気がしなくなってくる。

人に会うのもめんどうくさくて避けるようになる。

毎日が張りがなく味けなくなってくる。

何もしなければ、やがて生活はこうなる。

劣等感を持ちながら、くだらないといわずに逆にその劣等感をバネにして行動し成功した人は、成功のたびに劣等感を強くしていく。

劣等感にもとづいた行動は劣等感を強くするだけである。

 

大切なのは、このようなマイナスの動機で行動するのではなく、プラスの動機で行動することである。

魅せられてかみしめることが出発点である。

そのようなあらゆる機会を踏みにじってしまうのが恐怖感なのである。

私が考える人間の疎外構造とはこのことである。

あることに興味を持ち、それを続けることによって劣等感や不安感、他人が自分をどう思うかという恐怖感などは消えていく。

しかしその興味を持つ機会、きっかけの芽をつんでしまうのは、またそれらの恐怖感なのである。

恐怖感を克服するためには対象への関心が必要であるが、その対象への関心、興味を奪ってしまうのが恐怖感なのである。

そこからの脱出の方法が今までいってきたことである。

ほんのささいなことでもいいから行動を変える。

今までよりも歩く機会をふやす。

あるいはやろうか止めようか迷った時は必ずやる。

 

やる気がなくなると、他人から何かに誘われても、行こうか、止めようか迷う。

とにかく出かけるのが億劫なのである。

しかも億劫だからといって誘いをことわる、その結果、余計億劫になっていってしまう。

最後には何をするのも億劫になる。

一切が虚しく思える。

 

文章を書く前に『文章の書き方』の本など読む愚を避けることである。

書くことが大切なのである。

まず何でもいいから、文を書いてみることである。

下手でもいいし、意味が通じなくてもいい。

日記をつける前に、日記をつける意味を考える愚をおかさないことである。

日記をつけることの意味は、日記をつけてからわかるものである。

今の若い人達がいう、目標がないといういい方は、この愚をおかしているからである。

さらに、目標がなければ行動できないということは、それだけ生きるエネルギーが衰弱していることにほかならない。

この生命力の衰弱こそがシラケであろう。

 

何度もいうように、面白いから何かをやるのではなく、何かをやることによって、はじめて面白くなるのである。

虚しいといって苦しんでいる人に、ペットでも飼ったら、というと、犬もネコも可愛いとは思わない、という。

可愛いから飼うのではなく、飼っているから可愛くなるのである。

疎外される人間というのは、ペットを飼うためには可愛く思わねばならないと信じている。

ところが飼うことで可愛くなるのだから、その人はペットを飼えないことになってしまうのである。

だからこそ、疎外されないために必要なことは、人生を生きていくうえでの明るい前提なのである。

 

生きる意欲が衰えてくると、人は何かにつけて迷うものである。

下手の考え休むに似たり、とはよくいったものだと思う。

精神的に空回りしているだけなのである。

空回りすることで消耗してしまうのである。

あるものを買うか買わないかで迷い、どの服を着ていくかで迷う。

 

目標がほしいというシラケ世代にいえることは、全体的なエネルギーの低下である。

健全な目標を持つ条件としての精神的エネルギーが欠如している。

歩きながら考えることである。

考えてから歩こうとすれば、いつになっても歩くことはできない。

思考と行動は相互補助によってはじめて健全なものになる。

シラケ世代を見ていると、生きるリズムが狂ってしまったという感じを受けるのである。

まず何よりも、全体的な生きるリズムを回復することが大切な気がする。

リズムを回復するためには、今まで述べてきたような行動をとることである。

そして教育のレベルでいえば、音楽とか体育を重視していくことである。

芸術や体育は生きるリズムを回復するのに絶好だからである。

 

進歩するものは、狂ったリズムを回復してくれない。

絵画はどうだろう。

アルタミラの洞窟の壁画は今の絵画にくらべて見劣りするだろうか。

絵画は通信の世界のように進歩しない。

では一万年前の技術と今の技術とではどうだろうか。

百年前にテレビはあったろうか。

技術は絵画にくらべて進歩する。

しかし、ギリシャ悲劇はどうだろう。

ベートーベンの音楽はどうだろう。

人間が走るのはどうだろうか。

人間が跳ぶのはどうだろうか。

進歩するものではない。

飛行機はどうだろう、進歩していることは明らかだ。

芸術や体育をやるというのと技術を学ぶというのとは、ここが違うのである。