過剰な気遣いは本末転倒を生む
気遣いができる人間は魅力的だが、行きすぎると人との距離感をうまくとれなくなる。
両者の均衡が崩れてしまうからだ。
40代の男性会社員は、同僚の体調不良を心配していた。
同僚は一カ月ほど前から持病の偏頭痛が悪化し、仕事中も相当つらそうにしている。
だから、雑務で自分が代わってあげられるものはなるべく引き受けた。
また、以前に自分がかかったことのある名医も紹介した。
同僚はとても感謝して、男性の好きなワインを贈ってくれた。
もちろん、男性はお返しが欲しくてやっているのではないから、その後も何かと同僚に気を使った。
ところが最近、何だか腑に落ちない気持ちになっている。
同僚は体調が快復しつつあるようなのだが、相変わらず雑務を自分に頼ってくる。
お礼もろくにいわなくなった。
それに、紹介した医者に行ったかどうかも報告がない。
さて、この同僚はずうずうしいのだろうか。
私は、そうは思わない。
男性が気を使いすぎたために、二人の間の均衡が保てなくなったのではないか。
人間は、もともと怠け者でわがままだ。
誰かが気を使ってくれると、最初は恐縮していてもだんだんそれに慣れてくる。
そして、「やってくれて当然」と思い込むようになる。
彼の過剰な気遣いが、同僚をそうさせてしまったのだろう。
上司と部下など立場が違う場合は、一方が多くの気を使うのは仕方がない。
だがそうではない間柄なら、相手にも気を使わせなくてはいけない。
というのも、一方的にこちらが気を使いすぎると、それをずっと続けなければならなくなる。
相手にとっては「気を使ってもらうのが当然」となっているのだから、それをやらなければ「足りない」と思われる。
ふつうに接していたら不満を持たれる、というバカげたことが起きる。
さらに、そうした過剰な気遣いを、みんなが期待するようになる。
周囲は、二人を見ているのだから当然だ。
「あの人は気遣いがすごいね」と褒められようと思ったら、そういう無理をしなければならないのだ。
私は、人間関係はキャッチボールのようなものだと思っている。
何かを頼まれたり、引き受けたり、報告したり そうしたお互いのキャッチボールで成り立っている。
誰かと長く続けようと思ったら、双方の気遣いが必要なのだ。
キャッチボールで大事なのは、相手が立っている場所にちょうど届くように投げることだ。
受け取りやすいボールであることも大切で、もし、子どもが相手だったら、誰もがフワッと優しく投げてあげるだろう。
こちらがそのように投げるのだから、向こうが投げるときは、向こうにも気を使ってもらえばいい。
「どんなボールでも、こちらがちゃんと取るから任せて」などということはない。
もしかしたら、相手は投げ返してこないかもしれない。
投げ返してこなければ、放っておけばいいのだが、どうも気になってしまう
「どうしたの?何かあったの?」
すると、こちらの気遣いに慣れた相手はいうだろう。
「ちょっと疲れちゃったから、こっちに取りに来てくれない?」
ここまで距離感がおかしくなってから、相手を責めても仕方がない。
均衡を壊したのは自分の過剰な気遣いなのだ。
「愚かな人に嫌われるのを喜びなさい。彼らに好かれることは侮辱でさえあるから」
カナダの詩人フィリックス・レクエアはいっている。
気を使いすぎる人というのは、相手を愚かな人にしてしまい、また、その人から好かれようと必死になっているようにさえ見える。
第三者から見れば滑稽でもあるのだ。