淡々とした間柄でも、思いやりは伝わる
もうすぐ定年退職を迎える60代の男性が、「人を好きになれない」という相談を新聞に寄せていた。
これまで仕事上では、表面的にはうまくやってきたが、本質的に相手を信用したり心を開くということはなかった。
だから、長く動めた会社にも仕事仲間にも特別な愛着を持てない。
人生60年も生きてきて、こんなことでいいのかという相談である。
回答者は仏教家であったが、「無理して好きになる必要はない」と述べていた。
この男性の場合は、定年まで会社に勤め、家庭を持ち子どもも育て上げた。
ということは、それなりに人づきあいもできていたはず。
表面的だろうと、それでうまく過ごしてきたのだから十分ではないか。
それなのに、「もっと好きにならなくてはいけない」「自分にはそれができていないと自分を責めている。
やはり、どこか人との距離感がおかしくなっているのだろう。
人間関係は「熱い」のがいいとは限らない。
淡々とした中にもお互いを思いやる気持ちは存在している。
日本は火山国ゆえに、美しい自然に恵まれている一方で、地震などの災害は避けられない。
そのたびに、心あるボランティアが被災地に駆けつける。
若い人たちが必死に作業する姿を見ると、まだまだ日本も捨てたものではないと思う。
しかし、誰もが同じようにしなければならないということではない。
駆けつける時間はないが寄付をする人もいる。
寄付するお金がなければ祈るだけでもできる。
そうしたことを、それぞれがやっている。
それがいいのではないか。
卒業を間近に控えた男子大学生が、同級生からボランティアに誘われた。
だが、彼はすでに旅行の計画を立てていたので断った。
社会人になったら当分できないであろうバックパッカーの旅に出ようと思っていたのだ。
しかし、旅行をしている間、ずっと「自分は冷たい人間なんじゃないか」と心に引っかかるものがあったという。
だが私にいわせれば、そんなことを気にする必要はまったくない。
バックパッカーの旅をして世界を見るのも勉強の一つだ。
社会人になってから、はじめての給料で寄付をしたっていいではないか。
東日本大震災以来、「絆」という言葉がよく使われるようになった。
もちろん、人間同士の緋は大切だ。
しかし、距離感を間違えるとかえって息苦しくなる。
絆とはただ近くで強く結びついていることだけをいうのではない。
遠くから祈る気持ちも立派な絆だろう。
大きな災害に見舞われても、日本人はそれに乗じて暴動を起こしたりしない。
援助物資が届けば、割り込みをせずにきちんと並んで受け取る。
そうした行動ができるのも、周囲の人たちとの間にある見えない絆を感じているからではないか。
東日本大震災のとき、電車が動かずに黙々と自宅へ向かって歩き続ける人たちの様子が世界で報じられた。
それを見た外国人から「人々の間に圧倒的な一体感があって驚いた」という声を聞いた。
そこに居合わせた人たちは基本的に他人だ。
みんなが混乱して「自分がどうやって無事に家に帰るか」ということに必死だっただろう。
しかし、だからといって「ほかの人はどうなろうとかまわない」とは思わなかったはず。
体力がある男性なら高齢者を背負ってあげる。
それは無理でも「大丈夫ですか」と声をかけ合う。
そうしたことができていれば十分で、「自分は愛情が薄い人間だ」などと責めることはないのだ。
恵まれない人たちを助けているマザー・テレサに、「世界平和のために、私に何ができるでしょうか?」と問うた人がいた。
すると彼女は、「帰って、あなたの家族を愛しなさい」と答えたという。
いま、自分のできることをしていけば、それでいいのだ。