なぜ、そんなに「才能のあるなし」を気に病むのか?
若い人に進路相談をされて、ちょっとこまった。
「私、作曲家になりたいんです。どうしても」
という。
その人は、高校を出て、公務員になって二年目である。
仕事をやめて作曲に専念したいらしいのだ。
音楽大学を出たわけではないが、ピアノもギターも弾きこなし、一応の基礎はできているという触れ込みである。
「思い切ってやってみたら」
というのは簡単である。
しかし、あまりに無責任ではあるまいか。
「ムチャですよ。世の中、そんなに甘いもんではありませんよ」
というのも、若い人の可能性の芽を摘むようで、後味が悪い。
「すぐに結論を出さずに、勤めながら、しばらくがんばってみたら」
というのは、これまでどおりにやれということだから、何の助言にもならない。
将来への不安を抱えた人は、人に背中を押してもらいたくてしかたがないのだろう。
そういう心理がわからないわけではないが、「ムチャです」といわれて決心が鈍るようなら、最初からやらないほうがいい。
結局、現実の厳しさを伝えながら、「決めるのは君だよ」というしか、こちらもいいようがない。
そういったら、
「でも、私には作曲の才能があるでしょうか。才能がないなら、私も無理はしないで、このまま公務員を続けます。才能があるなら音楽の道に進みたいのです」
と質問をされて、これにはびっくりした。
そんなこと、私にわかるはずがない。
「才能があればやります。才能がないならやめます」というのでは、あまりに淡泊だ。
作曲を勉強したくてじっとしていられない……ぐらいの情熱はないのだろうか。
これから始めようとするときに、「努力」や「やる気」や「信念」をいう前に、才能の有無に頼るというのは、「虫がよすぎる」ようにも見える。
才能があるのかないのか……というのは、結果の話であろう。
どんな道に進むにしても、その才能を咲かせるのは、努力であり、やる気であり、信念である。
時間もかかる。
結果のいいとこ取りばかりを考えるのであれば、やめたほうがよろしい。