人を見切るときは、自分の感覚を信じる

ある30代後半の女性は、結婚を前提につきあってきた同年代の男性と別れる決心をした。

別れる理由は相手がケチだったことだが、これは自分の母親には通じなかった。

年齢のこともあるので、何とか関係を修復するよう、うるさくいわれている。

女性は、「あの人はケチだからイヤになった」と母親にもいった。

だが、費沢をしないのは結婚後のことを考えているからで、堅実な男なのだと母親は思っている。

友人たちも、「優しい人じゃない」「結婚するにはいい相手だよ」という。

別れを選択したことに賛成意見を述べてくれる人はいない。

男女間に限らず、こういうことはよくあるものだ。

ほかの人が「いいヤツじゃないか」「もっと仲良くしたらどうだ」というのに、自分はどうしてもつきあっていられない。

あるいは離れたいと思っている。

だが、みんなの意見を聞いていると、そんなふうに感じる自分のほうがおかしいのかとさえ思えてくる。

こんなときに、頼りにしていいのは自分の感覚だけだ。

人の意見は関係ない。

こういう場合は、自分の好みで見切ればいい。

そもそも、人との距離とはいったいどこからどこまでをいうのか考えてみることだ。

その起点はいつも「自分」である。

だから、自分軸がしっかりしていなければ、人との距離はうまくとれない。

 

たとえば、Aさん、Bさん、Cさんという三人の人間があなたの周囲にいるとしよう。

そのとき重要なのは、「あなたからAさん」「あなたからBさん」「あなたからCさん」という三つの距離が、あなたにとって適切に保たれることだ。

「AさんからBさん」の距離が近かろうと関係ないのである。

先の女性は、「この人はケチだ」と感じた。

「ケチだからイヤだ」と思った。

それは、ほかでもない自分の感覚だ。

それを確固たる基準にしていい。

彼女にとっては、許せないケチだったのだ。

もちろん、「ケチは気にならない」という人もいる。

「それより、だらしないのがイヤ」

「横柄な態度が我慢ならない」

「子どもじみていて愛想が尽きた」

人によって、いろいろあるだろう。

ほかの人には「そんなつまらないこと」と笑われても、本人にとって重要なポイントであれば無視できない。

人を見切るときに、自分の感覚ではなく周囲の思惑や世間の常識を優先していたら、やがて無理がきて破綻する。

「やっぱり、私にはあの人しかいなかったのに」

「あのとき、みんなが別れるなっていったから」

見切ったにしろ、見切らなかったにしろ、他人に責任を転嫁して、自分は不満タラタラ。

それは不幸なことである。

どんなことでも、人生は自分の感覚で判断するしかない。

いろいろ意見を聞くのはいいが、最後は自分の決断である。

その結果がどうなっても自分が引き受ける。

 

とくに、何かを捨てるとき、物事を中止するときなど、マイナスの決定を下すときには「自己判断」が必須だ。

マイナスの決定など下したくはないからと、ほかの人に頼っていたら、いつまでもズルズルと悪い状況が続く。

もっと自分に自信を持っていい。

自分軸でしっかり立って、イヤな相手とは自分の感覚で距離をとって見切っていくべきだ。