見栄を張るのもほどほどに

就職試験の面接官に話を聞くと、受験者のほぼ全員が、実際よりも自分を立派に見せようとするという。

だから面接官は、すべてを真に受けず話半分に聞いておく。

当たり前のことだと思う。

立場が違うのだから当然だ。

ただし、受験者側が立派に見せるにも限度はある。

とくに中途採用のケースでは、限度を超えることがよくある。

「〇〇プロジェクトを企画したのは自分です」

「デザイナーの○○さんには可愛がってもらいました」

実際には関係していないのに人の功績を自分のもののように語ってみたり、有名な人を知っていると大風呂敷を広げてみたり、というパターンだ。

それを信じて採用したら、まったく期待外れだったということになる。

なまじ期待しただけに落差も大きく、その人間に対する周囲の評価はガタ落ちになる。

なかには、経歴詐称をする人もいる。一度「詐称」をしてしまえば、その事実を取り消すことはできない。

失うもののほうが大きいのに、なぜそんなつまらない嘘をつくのか。

 

もちろん、世の中を渡っていくためには、ある程度の見栄は必要だ。

「世間は張り物」という言葉がある。

張り物とは、芝居で使われる木枠に布や紙が張られた道具のこと。

中味は空っぽだが、それっぼく見える。

ときには、そういうものを上手に使えと教えている。

しかし、見栄には張り方がある。

すぐバレるような見栄、大げさな見栄は逆効果だ。

具体的には、「みっともないよりは、カッコよく見えるほうがいい」くらいに考えていればいいのではないか。

 

私は服装に気を使うほうだが、「みっともないよりは、カッコよく見えるほうがいい」と思っているからだ。

たとえば、誰かと一緒に食事をするときに、私だけセンスが悪くて安物の服を着ていたら落ち着かない。

それに、あまり格好の悪いヤツが混じっていたら仲間にも恥をかかせる。

私のおしゃれは小さな見栄であり、一種のサービスでもある。

 

女性が化粧をするのも同様だろう。

実際よりも自分をよく見せたいから化粧をするが、それによって周囲は不愉快になったりはしない。

むしろ、場が華やぐ。

しかし、度がすぎて厚化粧になるのはみっともない。

実物に「ちょっとプラス」くらいの薄化粧がいちばんいいのではないか。

「高く登ろうと思うなら自分の脚を使うことだ。高いところへは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や馬に乗ってはならない」

その人が、自分の脚で登ってきたのか、人の背中に乗ってきたのか、山の上から見ている人はわかっている。

適度な見栄を張れるか、嘲笑されるホラ吹きになってしまうか。

その線引きは簡単ではない。

しかし、一ついえるのは「見栄は聞いているほうの立場になってみれば想像がつく」ということだ。

高い山の上から自分を見てみることも大切だ。

すぐにバレるようなみっともない見栄を張り続ける人は、それができていない。

あくまでも、見栄を張る自分の側からしか見ていないからだ。

いつも自分サイドからしか物事を見ない人は、人と上手に距離をとることはできない。

相手にズカズカ近づいていって、やたらと大きなことをいう。

それで「自分の魅力をアピールできた」と思っているのだから始末が悪い。

 

もし、あなたの周囲にみっともない見栄っ張りがいたら、その人はいい反面教師でもある。

客観的に自分と比べながら、ちょうどいい具合の見栄を身につけたい。

ここまではいいけど、これ以上はみっともない。

このへんの自己判断ができるかどうかだ。