「孤独と仲良くする練習」を早く始めておく

人はどのみち、一人なのだ。

生まれたときが一人なら、死ぬときも一人。

家族に看取られながら死んでも、しょせん、死ぬのは一人である。

人は孤独な生き物であり、それは悪いことではない。

もっと積極的に、孤独を楽しんでみてはどうだろう。

 

定年退職した男が、どこへ行くにも妻にくっついてうるさがられるケースがある。

「粗大ゴミ」といわれているならまだマシで、「濡れ落ち葉族」とも揶揄(やゆ)された。

妻にべったりついて行くからだ。

妻がクラス会にでも出かけるとなると、「俺の昼飯はどうなる?」「帰りは何時だ?」などと聞いたりする。

妻が「自分で勝手にやってちょうだい」と、うんざりするのも当然だ。

年をとってから、そんなだらしないことにならないためにも、若いうちから孤独と仲良くしておくことをすすめたい。

 

私は孤独が好きだ。

ふだんからほとんど一人で行動する。

バーに行くのも、連れ立って行くより一人がいい。

一人なら、カウンターで気楽に好きな酒を飲み、好きな時間に帰ることができる。

気が向いたらバーテンダーと話をしてもいいし、一人であれこれ考えるのも悪くない。

観劇も同様だ。

たいていの観客はカップルで並びの席を欲しがる。

この場合、早く予約しないといい席はとれない。

しかし、一人分だと案外いい席がボカッと空いていたりする。

一人は得なのだ。

一人旅も気楽でいい。

私の妻も海外旅行に出かけるときがある。

私も嫌いではないが、毎回はつきあわない。

友だちと出かける妻を「女同士、楽しくやっておいで」と送り出す。

その間、私は一人で箱根の温泉宿に泊まったりする。

そのときの気分で行き先を決め、ふらりと出かけられるのは一人だからだ。

一人は自由で楽しい。

その時間があるからこそ、他人と一緒に過ごす時間に「適切な距離」を測ることができるのだ。

四六時中、誰かと一緒にいることは、かえって人との正しい距離感を狂わせるのではないか。

ただし、「孤立」は避けたほうがいい。

「孤独」を楽しみながらも「孤立せず」にいるというのが、重要なポイントではないかと思う。

 

孤独は楽しいが、孤立は人をおかしくする。

以前、のどかな田舎の集落で何人かの住人が殺される事件があった。

犯人の男は、その集落で孤立していた。

自分をのけ者にする集落の人々に憤っての犯行だったようだが、集落の人々にしてみたら迷惑極まりない。

その男が勝手に孤立していただけのことだろう。

孤立とは、身寄りのない独居老人の専売特許ではない。

一人であろうとなかろうと、孤立する人はするし、しない人はしない。

80歳になろうかという、一人暮らしの老婦人がいる。

子どもがおらず、夫にも先立たれ、訪ねてくる親戚もほとんどいない。

孤独である。

しかし、この老婦人は、いろいろな趣味を持っている。

以前はハイキング、足要が弱くなってからは俳句や日本画に凝っている。

趣味の会合に出かけては、仲間とペチャクチャおしゃべりをする。

明るい性格だから近隣の人たちにも好かれている。

地震や台風などがあれば、誰かが「大丈夫?」と様子を見に来てくれる。

孤独ではあるかもしれないが、孤立はしていない。

 

孤立しそうになったら、どこへでも出かけていくといい。

スポーツクラブの会員になるのでも、料理教室に通うのでもいいだろう。

そこに行けば同じ目的を持った人がいる。

そうした人たちと挨拶するだけでも孤立感は和らぐ。

隣に立っている人に話しかけてみれば、おしゃべりが弾むかもしれない。

人には、話し相手が必要なのだ

年をとって孤立するのは、話し相手がいなくなるからだ。

積極的にいろいろな会合に顔を出し、できるだけ気の合った相手を探しておくといい。

 

ただ、そこで親友探しなどをする必要はない。

ケースバイケースで人と親しくなればいい。

そのためにも、そうした場は多く持ったほうがいいだろう。

一つの場に強い思い入れを抱くと、執着心が出てせっかくの話し相手を失ってしまう。

深入りせずに、いい距離感で人と話ができる場をたくさん持っておくのが理想である。

つかず離れずが適当な距離感なのだ。