相手の立場が変わっても、変えてはいけないこと
同じ工業高校を出て、大学に進まず就職した二人の青年がいる。
一人は部品メーカーで働き、一人は公務員になった。
大学に進まなかったのは、ともに家庭の事情だ。
二人は高校時代から気が合い、無二の親友として就職後もたびたび会っている。
いまは、どちらも独身で収入も似たようなものだ。
しかし、いつかは置かれた環境に違いが出てくるだろう。
部品メーカーの彼の口グセは「必ず独立してみせる」だ。
いずれ一国一域の主になり、誰にも真似ができないような精巧な部品をつくろうと意気込んでいる。
もしかしたら大成功して大金持ちになるかもしれない。
もちろん、逆に大失敗してどん底生活を送る可能性ももある。
そうした変化が起きたときに、二人は距離感を変えることなくつきあえるだろうか。
本当の親友なら、つきあえるだろう。
そのとき、友人関係の本音が見えてくる。
私の周囲にも、環境が変わってしまった人はたくさんいる。
ものすごく羽振りがよかった社長が、倒産で会社も自宅も家族も失った。
スポーツ万能で女性にモテた快活な男が、突然倒れて車椅子生活になってしまった。
長く生きていれば、思わぬことがいろいろ起きる。
しかし、それによって彼らの価値が変わるわけではない。
私にとっては大事な人たちだ。
だから、私から彼らに対する距離を変えるようなことはしない。
声をかけるのを遠慮したりするのは失札なことだと思っている。
逆のケースもある。
投資の世界で大儲けし、いわゆるセレブになった知人がいる。
住んでいる家も乗っている車も、私などとは無縁の世界だが、だからといって何も気にすることはない。
これまで通りつきあっている。
相手の私に対する態度も昔のままだ。
同じ人間同士、それが当たり前のことではないか。
ところが、世の中には、立場によって距離感を変えてしまう人が少なくない。
ある30代の女性は、最近離婚した。
それを機に親友とも疎遠になった。
その親友夫婦はとても仲がよく、夫は高名なデザイナーとして世界を飛び回っている。
そんな幸せそうな親友を見ているとつらくなるだけだから、電話もしなくなった。
「友人の苦難に同情することは誰にでもできるが、友人の成功に同感するには、大変優れた性質が必要だ」
人の不幸をあれこれ詮索したり、自分よりいい暮らしをしている相手に卑屈な態度をとったりするのは、人としてみっともない。
もちろん、距離感を変えない仲にも、気遣いは必要である。
趣味のダイビングで伸良くなった40代の男性グループがあった。
彼らは、たびたび一緒に海外の海で潜った。
しかし、そのうち一人の状況が変わった。
小学生の娘が重い病気にかかり、治療費の捻出にも苦労している。
「悪いが、しばらく遠出はやめておくよ」
その話を聞いた残りのメンバーは、彼をダイビングに誘うのをやめた。
だが、自分たちのダイビング旅行は続けた。
そんなことまで遠慮したら、彼がイヤがると思ったからだ。
そして、相変わらず連絡は取り続け、飲み会があれば声をかけた。
彼が出席してもしなくても、それにこだわらずに声をかけた。
会えばお互いの家庭の話題も出る。
そんなときは、彼も自分の子どもの様子などをふつうに話した。
ただ、彼の娘の病状などを根掘り葉掘り聞いたりはしない
誰がいい出したわけでもなく、何となくそれがルールになっている。
相手の環境が変わったときは、こういう距離感がいい。
本当に気を使うことができる人は、使っていることを感じさせない。
必要以上に人の変化に敏感に対応しようとする人は、実は鈍感なのである。