「あの人とはウマがあう」といろいろな人から思われる人は、たいてい、ほめ上手という特技を持っているのではないだろうか。
ほめるのが上手な人は、相手をい い気持ちにさせずにおかないから、誰とでもうまくいく。
それに、ごく自然と相手が喜ぶことを言えるから、結果的にウマがあうことになるのだろう。
むろん、あからさまなおせじや追従(ついしょう)は、かえって相手の気分を害することになって逆効果になることが多いが、相手をほめるということは、人間関係の潤滑油にもなりうるものだ。
私の女房ですらそうだ。
「料理がうまい! ありがとう」と言えば、女房は、「またいつも同じこと言って」と言いながらもうれしそうだ。
誤解されやすいことだが、「ほめる」と一口に言っても、ただほめればいのではない。
これがおせじになるとちがってくる。
「いやあ、専務は営業の天才ですね。業界で専務にかなう人はいませんよ。私は専務の下で働けて幸せです」
もともと、おせじを言うのと、ほめ言葉を言うのとでは、まったく意味がちがう。
おせじは自分の利益のため、つまりは自己保身のために、あえて本心に逆らってへりくだるものだが、ほめるという行為は、相手のことを 慮(おもわんばか)ってするものである。
「ほめる」というのは、「その人のよいところを評価し賞賛すること」と辞書にはある。
つまり、相手のよいところや長所を評価し、それを言葉に出すのである。
そのためには、まず、他人の人物評価がうまくできる人間でなければならない。
そして、人物評価にあたっては、さまざまなデータを検討する、綴密(ちみつ)な判断力を持ち、ふだんは隠れているところの美点をも見つけだす能力が必要となる。
そして、相手の美点を見つけたからには、それをためらわずに即座に言える実行力と、率直な姿勢が必要となる。
だから、相手に対して、少しでもわだかまりやコンプレックスといったもの、あるいはライバル意識や嫉妬心などがあると、相手をほめることができない。
「能力はあるんだけど、ちょっと仕事が丁寧すぎて時間がかかりすぎるんだよね」
「いくら成績がよくても、軽薄なところがあって、もうひとつ学校の先生の評価が低いみたい」
と、言わなくてもいいことを言ってしまう。
つまり、知らず知らずのうちに意地悪をしたくなる方向へ向かってしまう。
心の底では相手の美点を認めているのだが、そのことを自然な形で言葉として発することができない。
うまくほめるのは、簡単そうでいて、なかなかできないことである。
人をほめようと思ったら、まず、自分自身がポジティブな考えを持つこと。
人に対して純粋で素直な気持ちでいることだ。
他人という存在をポジティブに受け入れられるようになれば、労せずとも、ほめる言葉が心から自然に感じたままに出てくるようになるのではないだろう。