人の心をつかむためには、できるだけ飾らず、素直な気持ちで人に接することにつきるのではないかと思う。
感情表現も、あまりないよりは、豊かな人のほうが他人から親愛を得やすい。
とはいえ、あまり大げさな感情表現は逆に嘘っぽくなり、真意が伝わらないばかりか、その人のセンスを軽いものに思わせてしまう。
よく「チョー〇〇〇」といった感情表現をすることが盛んだが、そうした感情表現がすべての人に正確に伝わるかどうかはなんとも言えない。
年配の人などは、むしろ何でも「チョー」ですませてしまうことについて、表現力の衰退(すいたい)を嘆くことだろう。
また、年齢的にどうしてもそういう言葉に抵抗を覚えてしまう。
「チョー」が通じるのは、あくまでも同年代や仲間内だけである。
つまり、日ごろから周囲にいて、密度の濃いコミュニケーションをしている人たちの間でしか通用しない表現なのである。
生き生きとした会話を成立させるためには、やはり、表現力を鍛える必要があると思う。
たとえば、非常に怖い絶叫マシンに乗った経験を伝えたいときには、「チョー」や「もー、すごいんだから」ではなく、ありきたりだが、「谷底に突き落とされるような」と言ったほうが、まだ恐怖の状態が伝わりやすいのではないだろうか。
「チョー」などの過激な表現を使うのにふだんから慣れてしまっていると、そうした表現を日常生活にそのまま持ち込みやすくなる。
しかし、いつも過激な表現を使うことが適切である場合ばかりとは限らない。
たとえば、仕事や社会でこうした過激な表現を使うのは、語彙(ごい)が不足しているのではないかと思われてしまうことだろう。
また、人によっては、ふつうの断り方をした場合よりも強い心理的な衝撃を与えかねないときもある。
もともと、過激な感情表現はできるだけ抑えたほうが無難であることが多い。
たとえば、上司が部下に向かって、「君の今回の失敗は、私としては本当こがっかりするものだった」と告げた場合、部下は通常よりも強い心理的な衝撃を受ける。
「こんな失敗をして、ダメじゃないか」と言われた場合よりも、それは強いものがある。
テレビゲームのボリュームをいっぱいにして遊んでいる子どもに対して、母親が、
「うるさいからやめなさい」とか、「近所迷惑になるからやめなさい」と注意すればいいところなのに、「そんな大きな音を立てて、本当にイライラするわね」とか、「うるさい、ムカツクのよ!」とあからさまな不快感を伝えたために、子どもが萎縮(いしゅく)してしまったということがある。
生の感情表現は、相手に対するダメージを大きくする。
むろん、そうした表現をすべきときもあるが、多くの場合は、抑制をきかせて相手の立場を慮って告げたときのほうが効果はあるようだ。