ケチばかりつける批判的否定的な人がどこでもいる。
みんなが立派と思っているようなことでも、「あそこがよくない」「これではだめだ」と言う。
テレビドラマを見ていても、「そんなバカなことがあるもんか」「さっきのシーンと矛盾するじゃないか」「いくらなんでも、そんな都合のいい偶然はないだろう」などと突っ込みを入れながら見る。
ワイドショーを見ていても、コメンテーターの発言に、「おい、お前はバカか」「だったら、こんな場合も、あんたは反対するのか」「ご立派なことを言っているけど、じゃあ、それを実現するには、どうすればいいんだよ」などと反応する。
批判精神旺盛で、満足することがない。
もちろん、批判するということ自体は、愚かではない。
それどころか、批判できるということは、一般的には、知的だということだ。
少なくとも、その批判にある程度の説得力があるとすれば、知的であることに間違いはない。
だが、批判をするばかりで、建設的な意見がないとすると、知的だとばかり言っていられなくなる。
この種の人は、他人のあら探ししかできないのだ。
誰かが何かを言う。この種の人は決して、それに賛成しない。
部下の立案に対してもほめることはない。
あれこれと細かいところをつつきだして、批判していく。
「それじゃだめだよ。君の企画書は欠点だらけだよ。まず、顧客のタイプ別も五種類だけじゃ少ないよ。販売戦略も、君の言うようにはならないよ。こんな場合を考えてごらんよ。それで売れるわけがないでしょ」などと言い出す。
そこで、次回の会議で、今度は批判された場所を訂正して、発表する。
だが、また批判される。「まだだめだよ。顧客のタイプ別も八種類に増やしたみたいだけど、それでもまだ不十分だよ。……のような顧客だっているんだから。販売戦略も、君の言うようにはならないよ。ほかの場合もあるでしょ」
批判自体は的確なものだとしても、こうなると、批判されている人は途方に暮れてしまう。
どうすればよいのかわからない。
そもそも何を批判されているのかもわからない。
それは、批判している人が、しっかりと対案を示していないためだ。
批判するからには、「××ではない。○○であるべきだ」というように、対案を示すのが礼儀だ。
対案を示さずに、批判だけしても、まったく建設的な面がない。
批判だけするということは、ただ相手をいじめているだけになってしまう。
このようなことをしていると、周囲から浮いてしまうだろう。
そして、「できる人間」と思われるどころか、「あら探しばかりする人間」とみなされる。
この種の人が愚かなのは、批判をすることによって計画を妨げるばかりで、プラスに進むことに少しも貢献していないということだ。
この種の人は、部下をいびっているか、それともたんに自分の能力をアピールしているとしか思えない。
これでは、部下の能力をまったく認めないことになってしまう。
この種の人は、部下を育てないことでも、恐かなのだ。
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何事にも批判不満をブチかます人への対策には
自分が批判されたら、「では、具体的にどのようにすればいいんでしょうか」と聞いてみる。
こういう上司に批判されているときには萎縮(いしゅく)してしまって聞けないこともあるだろうが、そこを堂々と聞いてみる。
「せめてヒントをいただければ、もっとずっとよいものを作りますので、よろしくお願いします」などと言ってみる。
もし、自分が批判されていないならば、横から口を出すことは可能だろう。
それを続けるうちに、その種の人も、批判だけするのが不手であると気がつくはずだ。
それを気がつかないとしたら、批判は無視するしかない。
あるいは、こういう上司に対しては、いくつかの案を併記して提出して、上司に選ばせるというのも一つの方法だ。
何事にも批判不満をブチかます人の自覚のポイント
こういう人は、たいてい相手の言うことを、きちんと聞く習慣がない。
自分は人を批判してばかりいると多少でも気がついたら、他人の意見をしっかりと聞く、それを考慮するということを考える必要がある。
そのためには、とりあえず「確かに」という言葉を口癖にするようにしよう。
「確かに、君の言うことには、正しい点がある」と、しっかりと相手を立てる。
そして、そのプラス面を認める。
そうすれば、相手も、批判されてもそれほど傷つかない。
したがって、上手に「確かに」を使うことだ。
コミュニケーションというのは、お互いを認め合ってこそ成り立つ。
批判するにしても、相手の努力を認め、その長所を認識した上のものでなければいけないと相手の言い分をしっかり聞き、それを考慮し、対案を示しながら批判する。
「ここをこうすれば、もっとよくなる」ということをきちんと示せば、どんなに厳しく批判しても、言われたほうは、どうすればよいかがわかるので、次回から、だんだんと力をつけていくだろう。