何事も「くだらない」と思える人にささげる言葉は、『人生は祭りだ』ということである。

祭りなどはくだらないといってしまえばくだらない。

しかし祭りに参加している人間にとっては面白くて仕方ないのである。

 

祭りの面白さは理屈ぬきの面白さである。

この人生のひとつの岐路は、理屈ぬきの面白さを味わえるか、どうかにある。

ところが「くだらない」という考え方をしていると、この理屈ぬきの喜びの体験を回避することになる。

「くだらない」という無意味感を持つことによって、自分からこのような機会を拒絶してしまうのである。

 

美味しいものを食べることなども大切なことであろう。

「食べる」ことなどといって軽くみてはならない。

そしてこれがまた大切なことなのだが、美味しいものを味わう能力があって美味しさを楽しめるのではない。

美味しいものを食べているうちに、舌がこえてくるのである。

そして舌がこえてくると「食べる」ということが楽しみになる。

すると遠くにまであるものを食べに行くようになり、そこから人生が明るくなるということもある。

食通になってから、という考え方をすると、人生は味けなく、むなしく、不安と心配におそわれてくる。

まずいろいろ食べることなのである。

 

絵画だって同じである。

とにかくデパートなどの展覧会に行くことであろう。

絵がわかってから行くのではなく、デパートに絵を見に行くから絵がわかってくるのである。

良い絵を見ることが絵の鑑賞眼をやしなう。

それから絵を見る楽しさが出てくる。

したがって自分は絵を見てもつまらないからと絵画の展覧会に行かないという人は、人生を暗い感情ですごさなければなるまい。

それは絵ばかりではない。

 

陶器だろうが、書道だろうが同じことである。

自分の感情が低調になってしまうのは、基本的に元気になったら活動しようという考え方で生きているからである。

活動するから元気になるので、その逆ではないということを忘れてはならない。

スポーツをしながらよくファイトノ ファイト と声を出すのは、元気だからではない。

逆に声を出すことで元気になろうとしているのである。

元気だから歌うのではなく、歌うから元気になることを忘れてはならない。

歌うことも食べることも、決して「くだらない」ことではない。

 

生きることがなんとなくつまらないという人、精神的活動の低調な人は、何事も決して「くだらない」という前提に立って行動してはならない。

そのように生きることで、いよいよそのく

だらないという前提は自分の中に強化されてくるのだから。

灰色の人生をバラ色に変えるためには、まずその灰色の前提に立って生きることを止めることである。

逆に人生は素晴らしいという前提に立って生きることである。

 

今の学問なんて結局くだらねえ、などと決していわないことである。

金もうけなんてくだらねえ、結局死ぬんじゃねえか、などともいわないことである。

政治なんてくだらねえ、あんな汚れたもの、などともいってはならない。

それらをやっている人は、ゲームに参加することの方が面白い、という前提でゲームをしているのである。

その結果として明るい感情を持っていられるのである。

『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん』というのは踊っている人間の言葉であろう。

まず踊る側に属するか、踊らぬ側に属するか、というのは、大問題である。