仕事場に向かう前に、決まったカフェに立ち寄る。
毎朝だいたい同じ時間帯に行くから、何度も目にするお客がいる。
なかでも印象的だったのが、同年代のサラリーマンらしき二人連れだ。
一人はやせていて一人は小太り。
いつも仲良くコーヒーを飲みながら話しているので、見ていて微笑ましかった。
ところが異動でもあったのか、最近、小太りのほうがいなくなり残された一人はいかにも寂しそうにしている。
この二人は、体型こそ違うが、ビジネスマンとしてのレベルは同じくらいだろうと想像している。
話している内容は聞こえなくても、雰囲気でわかる。
同年代を差し置いてどんどん出世していくようなタイプは、自分と同レベルの人間とはほどほどのつきあいに留める。
その分、「この人についていけば」と思える人間との距離を積極的に縮めていく。
そのさじ加減がうまい。
傍から見ると、「彼は優秀なのに、なぜあんなわがまま勝手な男に接近していくのかわからない」と不思議に思えることがある。
だが、しばらくすると、そのわがまま勝手な男もそれに近づいた男も、出世したりする。
そうしたことができるのが、一流と二流の違いなのかもしれない。
ビジネスの現場には、一流の人間、二流の人間、そして三流の人間がいる。
三流ではちょっと厳しいが、二流は一流になりえる。
だからみんな、いずれ一流になりたいと望む。
そして、本当に一流になれる人と、二流止まりで終わる人に分かれる。
ステップアップしていくためには、上のランクにいる人間との距離を縮めて、積極的につきあっていく必要がある。
だが、それはけっこうきつい。
一方、同じレベルにいる人間とつきあっていれば気はラクだ。
だから、カフェの二人連れも年中一緒にいたのだろう。
二流にとっていちばんラクなのは、自分より下の三流とつきあうことだ。
これなら、いつも自分が優越感を持っていられるから、三流の面倒を見る余裕も生まれる。
二流にとって最も大変なのは、一流とつきあうこと。
これは「負け」の連続になる。
棋士の谷川浩司さんによれば、「負けました」といって頭を下げるのが正しい投了の仕方だが、それはつらい瞬間だそうだ。
だが、「負けました」とはっきりいえる人は、プロでも強くなるという。
逆に、それをいい加減にしている人は上にはいけないと指摘している。
一流とつきあうことは、負けを認める訓練になるのかもしれない。
もちろん、努力も求められる。
いくら負けるとわかっていても、一流と取り組むにはそれなりの準備と覚悟が必要だ。
しかも、一流はあまり二流の面倒を見てくれない。
一流同士の激しい競争がありそれどころではないからだ。
一流の人間は、非常にシビアな世界に身を置いている。
「人生競争において肉体がまだ立場を守っているのに、魂が気絶するは魂の恥辱なり」とは古代ローマ皇帝アウレリウスの言葉だ。
一流人はみな、覚悟で仕事に臨んでいる。
「まだ自分は二流レベルだ」と自覚している人が一流を目指すなら、できるだけ一流人に近づいていかなければならない。
そのときに、まず必要なのは素直さである。
いくらシビアな一流人でも、自分のいうことを素直に聞き、行動に移す人間を可愛いと思うのは当然だろう。
可愛いと思えば、それなりに目をかけてくれるはず。
しかし、「使い勝手がいい」人間になってはいけない。
使い勝手がいいフリをして油断させ、一流人の懐に入っていくのは悪くないが、使われっ放しになる可能性もある。
使われっ放しでは、いつまでたっても自分と一流人の距離は変わらない。
同じ構図の中で、二流から抜け出せずに終わってしまう。