「自分は自分」と割り切れば嫉妬から自由になる

人は自分にあるものには鈍感で、ないものばかりを欲しがり、勝手に不満を募らせたりしている。

「会社の後輩に対して、嫉妬してしまう自分がみじめだ」と訴える女性がいる。

自分は一般的なサラリーマン家庭に生まれ、取り立てて美人でもないし、すごい特技があるわけでもない。

ところが、入社してきた後輩は、モデルのような容姿をしているだけでなく、帰国子女で英語もペラペラだ。

自分と彼女を比べても意味のないこととはわかっていても、つい嫉妬し、うらやましい感情を抱いてしまうのだ。

男でも嫉妬心の強い人間はいる。

たとえば、同期が自分より先に出世すると妬ましく思う。

そのことを悟られたらみっともないから隠してはいるが、「何とか、こいつ失敗しないか」などと相手のミスを願ったりする。

これは、これで情けない。

他人に対して尊敬や憧れを抱くのはいいが、嫉妬や羨望はできるだけ持たないことだ。

 

どれほど尊敬して憧れようとも、彼女、彼らに替わることはできない。

自分は自分、人は人。

この大前提を見失ってはならないのだ。

嫉妬や羨望は、「自分もあんな人になってみたい」と思うところから始まる。

ほとんどの嫉妬や羨望は、距離の近い人に対して抱く。

テレビ画面の向こうにいる美人女優や会ったこともない成功者には、憧れこそすれ嫉妬はしない。

ところが、友人とか同僚など自分との距離が近いと違ってくる。

かけ離れた存在ではないだけに、「もしかしたら、自分もこの人のようになれるのではないか」と考えてしまう。

しかし、実際にはなれない。

なれたとしても二番煎じだ。

別人なのだから、どうしてもその人に替わることはできない。

絶対に替わることができない別人になろうとして、「できない」という当たり前の現実にイライラする。

それが嫉妬の正体ではないだろうか。

そう考えると、嫉妬や羨望はいかに意味のない感情かがわかるはず。

 

「自分を幸福だと思う人が、幸福な人なのだ」

自分にないものを、人が持っていようといなかろうと、そんなことは関係ない。

要は、自分がどうなのかを評価するのがすべてなのだ。

しかし、なかなかその真理にたどり着けず、人は悩んだりする。

 

先の女性は「嫉妬してしまう自分がみじめだ」といった。

そこには「この後輩が自分のそばにいるから、みじめになってしまう」という思いがあるはず。

原因は後輩のほうにあると思ってしまう。

しかし、本当は、後輩は関係ないのだ。

絶対に替われない他人に、自分がなろうとしているのだと気づかなければ、たとえその後輩がいなくなっても、また別の嫉妬の対象が生まれるだけだ。

自分は自分、人は人、スパッとそう割り切り、その大前提に立つことで、嫉妬や羨望から自由になれる。