昨日食べた晩御飯のメニュー、さっき観た映画のヒロインの名前など覚えていると思っていたことが、いくら考えても思い出せない、なんてことよくありませんか?
これを私たちは、「ど忘れ」あるいは「もの忘れ」と呼んでいるわけです。
少し時間がたてば思い出すこともありますが、覚えていることを思い出せないと、どうにもはがゆさを感じてしまいます。
ときには「とうとうボケてしまったかな」と心配になることも珍しくありません。
そして、年をとればとるほど、この「もの忘れ」は多くなり「記憶強化術」「ボケ防止術」なるものに関心を抱いたりするものです。
では、「もの忘れ」や「ど忘れ」は、どうして起こるのでしょうか。
また、人間はなぜ「もの忘れ」を恐れるのでしょうか。
「もの忘れ」のメカニズムを語る前に、ものを忘れることの前提条件、すなわち「覚える」ことについて考えてみましょう。
もの忘れは、ある日突然、だれにでも起こりうることです。
たとえば、次のようなことは珍しくはありません。
あるあわただしい午後のこと。
ちょっとした合間時間に、昨日、若い部下につくってもらった新聞のスクラップを見ようとしました。
ところが、どこを探しても見当たりません。
「机の一番上の引き出しにしまっておいたはずなのに……。床に落ちてはいないか、ほかの書類の間にはさまってはいないか……」
一時間ほど前に、一度目を通しているので、業務に差し障りがあるといったことはないのですが、どうも腑に落ちません。
この一時間の自分の行動を思い起こしても、あわただしかったこともあって、どこに置いたのか思い出せない…
そこに、一人の女子社員の声が響きました。
「どなたか、コピー機の中に書類を忘れてますよ」
「それだ!」
ほんの一五分ほど前に、控えをとっておこうとコピーしたのを、すっかり忘れていたのでした。
このような場合、「一五分前の記憶」が消えてなくなっていたわけではありません。
それを思い出すための回路が一瞬働かなかっただけなのです。
時間がないことに加えて、「重要なものを紛失してしまったかもしれない」というあせりが、思い出すという行為をじゃましていたにすぎません。
女子社員のひと言がヒントとなり、コピーをとった記憶も、契約書を置き忘れた記憶もよみがえるのです。
人はつい、うっかり「もの忘れ」をしたとき、あせり、苛立ちます。
それが重要な情報であればあるほど平常心を失い、思い出せないわが身を責めたくなるでしょう。
しかし、「もの忘れ」や「ど忘れ」は、どんな天才でもあることなのです。
たとえば、「万有引力の法則」を発見した物理学者アイザック・ニュートンは、研究に没頭するあまり、夕食をとるのをしばしば忘れたといいます。
また、「国富論』の著者であるアダム・スミスは、着替えることを忘れて、寝巻のまま教会にあらわれたといいます。
歴史に名を残すような「天才」でもそうなのですから、われわれ凡
人がもの忘れをすることは、むしろ当然なことともいえるでしょう。
脳のことをだれよりもよく知っている脳外科の医者ですら、手術の最中にメスという言葉が出てこなくなったり、神経内科の医者が患者さんに処方する薬の名前を度忘れすることがあるくらいなのです。