相手に期待するのは、 ほどほどがいい

周囲に親しい人を多く持っている人とつきあうときと、周囲から孤立しがちな人とつきあうときは、こちらの気の遣い方がちがってくる。

友人や仲間を数多く持っている人はすぐに親しくなれるし、素直につきあうことができる。

しかし、周囲から孤立しがちな人とつきあうのは、なかなかうまくいかない。

 

数多くの仲間とつきあいのある人は、こちらに対してもそれ相応の気配りがうまく、座をシラケさせることがないし、また、こちらを楽しませてくれる。

だが、仲間づきあいがあまりない人は、突然、会話の流れとかけ離れたことを言ってみたり、あるいは自分勝手な思い込みで、こちらに何かを期待をしたり、思いもよらぬ要求を突きつけてくることがあって、つきあいづらいのである。

このような応対の差は、結局、人づきあいに慣れているかどうかからくるものであろう。

人づきあいに慣れているから、相手にどのように接すればいいかが体で理解できている。

だから、自然につきあう仲間の範囲をどんどん増やしていけるし、親友と呼べる人を数多く持つことができる。

しかし、人づきあいに慣れていない人は、相手にどのように接すれば、相手が喜び、好意を持ってくれるかが体で理解できていないために、つきあい方もぎこちないものになり、ときには相手のプライドを傷つけたり、不快な思いをさせてしまう。

もちろん、そうした人が自分が周囲から嫌われてもいいなどと思っているわけではない。

できれば心を許せる友人をほしがっているのである。

しかし、それがなかなかうまくいかない。

この原因は、ひとつは、もともと自分が原因で、出会いのチャンスを少なくしていること。

そして、その少ない出会いのチャンスにすべてをかけようと意見気込みすぎるからではないだろうか。

チャンスがないから出会いがないと悩む人がしばしばいる。

しかし、チャンスというものは、たぶん、平等にみんなにあるものではないか。

チャンスがないと悩む人は、むしろ、チャンスの数が少ないのではなく、チャンスをつぶしているから少なくなると言えると思う。

 

ある出会い系の会費制パーティに出席した30代の男性は、パーティの間中、イヤホンを耳に音楽を聴きながら競馬新聞に読みふけっていた。

それなら、わざわざ会費まで払って来なければよさそうなものだが、彼は出席した女性の誰かが話しかけるのを待っていたのだ。

しかし、そんな奇跡は起こるはずはない。

 

これは特殊な例だが、たとえば、ちょっとした興味で自分のことを振り返 ってくれた人がいたとき、もうその相手が恋人になってくれたかのような期待感を抱いてしまう。

そこで、恋人に求めるような要求をしたり、態度をとったりして相手を縛ろうとする。

しかし、相手はまだそこまでは考えていないのである。

そこで意識のギャップが生まれる。

「なによ、この人は。ずうずうしい。ずいぶん自分勝手な人ね」といったような不満が生まれ、敬遠したい気持ちが湧いてくる。

結局、孤立しがちな人は、少ない出会いのチャンスにすべてをかけようとするために、最初からあまりにも多くのことを相手に要求しすぎるのではないだろうか。

その要求度の多さ、期待感の高さが、せっかく好意を示してきてくれた相手をみすみす離れさせる原因になっているように思われる。

それもこれも、結局は人づきあいという経験の少なさからくることだろう。

つまり、慣れていないから、相手に何をして、何を言うべきかがわからないのである。

 

人間関係をうまくとりむすぶ方法など、学校ではなかなか教えてくれない。

また、教科書に書いてあるわけではない。

とはいえ、人間関係は社会生活の基本であって、誰でも、特別に教えられるわけでもないのに、専門知識を持たなくても日常生活をうまく過ごしているのである。

誰でも日常的に使っている言葉によるコミュニケーションだからこそ、簡単だし、同時に難しいと言える。

最も迷うのが、どんな話題を出せば相手とうまくやっていけるかということであろう。

しかし、そう緊張することはない。

話題はなんでもかまわないのだ。

たとえば、お天気の話でもいいだろうし、どこそこでおいしいケーキを出してくれるといった、たわいないことでいいのである。

意外と簡単なことで「ウマがあう人」が増えていくのだ。