50代でも家の中に身の置きどころをつくれ

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家しか帰るところはない50代の悲しい現実

会社にいれば、それなりのステイタスを与えられ、デンと構えていられたのに、その肩書をはずされたとたんに、家の中では「身の置き所もない哀れな存業在」になってしまう50代の人は多い。

それが分かっているから、日本の亭主族はできるだけ長く現役でいたがる、つまり、仕事にしがみつくのだろう。

これは、特に上の地位の人、ホワイトカラーに目立つ現象のようである。

だが、用済みの人にいつまでもしがみついていられたら、後輩が迷惑だ。

それに、これからはそういうわけにもいかなくなるはずである。

というのも、今後続々と退職予備軍が増えてくるからである。

ベビーブーム世代を中心として、毎年数百人から千人ぐらいが「適齢期」を迎えるようになる企業もあるはずだ。

需要と供給のバランスからいって、どうしてもポジション不足にならざるを得ないのである。

そうすれば、家に待機する人の数も急激に増えることは目に見えている。

 

50代は必要なし?今では、若い人でも就職難の時代である

高給取りだが仕事はできないという、半端なホワイトカラーはいらないのである。

今まで窓を背にし、特製の大きな橋子にふんぞり返っていたような人ほど、よほどの特技でもないかぎりは「余ってくる」ことは必定だ。

そして、リストラされたら家しか帰るところはない。

こういう人にとっては、50代はおもしろいどころか、「苦しみの始まり」かもしれない。

少なくとも、何か手を打たないかぎりは・・・

 

では、どういう手を打つべきか。

どこか働き口を探す?

それもいいだろうが、おそらく、ろくなものはないだろう。

「ろくなものはない」というのは、「本人が満足できない」という意味である。

ここで気分を一新して、肉体労働、汚れ仕事でもやってやろうじゃないか、という気になれた人は、それはそれなりの道が開けるにちがいない。

しかし、こういうタイプの人には、意識の切り換えは困難だと思われる。

 

50代でも家の中でも存在価値を見出せ

もう一つの道は、

思いきって家事に精を出してみることだ。

これは、いろいろな意味で有意義なことである。

朝起きてから、フトンをたたみ、朝食の仕度をし、後片づけ、掃除、洗濯、昼食の仕度、後片づけ、昼寝、夕飯の買い物、洗濯物のとり込み、夕食の仕度、後片づけ、洗濯物の整理、アイロンかけ、就寝の仕度と、妻が一手に引き受けてきた家事労働をひととおり経験してみるのである。

これは、いろいろな意味をもつといったが、以下のようなものである。

① 運動不足の解消に役立つ

② 妻がそれだけ楽になる(もっとも、手際が悪くて苦情が出る公算は大)

③ 妻の気持ちが少しは分かるようになる

④ 家事労働は変化に富んでいて、おもしろい部分があることが分かる(少なくとも会社での単調な仕事よりも創造性を発揮できる場面があり、中でも料理は「芸術」に通ずるところがある。もっとも、暑い時キッチンは地獄であるが)

 

以下は、家の形態で異なる。

① 庭の手入れ、清掃

② 家の内外の営繕、日曜大工(定年後は毎日が日曜日だから、毎日でもできる)

 

大都会のウサギ小屋暮らしをしている人には、こういう手入れをするところもないのがさびしいが、それでも棚を吊るとか、カベを塗るとか、電気製品などのちょっとしたトラブルなど、いろいろなことが起こるだろう。

そういう時にドゥ、イット・ユアセルフ (DIY)ができたら便利だし、感謝される。

職場同様、家の中でも存在価値を見出す努力をすべきであろう。

 

何もできない50代を過ごすより、なにか得意分野を広め頼られる人間になろうではないか!!