話がつまらない男には共通点がある

仕事の場では溌剌(はつらつ)としていて輝いて見える。

常に先頭を切って動いている様子で、その男の周囲の空気の流れは速くてさわやかだ。

ものの言い方もスマートで、人の気を逸らせることもない。

女性社員のあこがれの的であって、理想の男性像に近い人として評価されている。

 

若いので、独身生活を謳歌(おうか)しているに違いない、と誰もが考えているのだが、恋人や親しい女友達がいる気配がまったくない。

聞いてみると、本人は気に入った女性には、いろいろと働きかけてはいるらしいのであるが、うまくいかないのだという。

一回か二回のデートくらいまではうまくいくのだが、それから後が続かない。

つきあい始めたことのある女性の話によると、会話をしていてまったく面白くないのだという。

本人は目を輝かせて話をするのだが、すべて仕事に関連した話ばかりなのである。

 

趣味はと聞いても、仕事が趣味だという平凡な返事が返ってくるので、それ以上の話に発展していかない。

人に質問をするときも、相手の仕事に関することばかりなので、デートをしているのか仕事関係の会合の延長上にあるのかわからなくなってしまう。

ビジネスの世界も奥行きが深く、追究していけば面白いとはいっても、やはり人生の場における一つの分野であるにすぎない。

また「一芸は道に通ずる」といわれているが、いくら活躍しているとはいっても、まだビジネスを究めたとはいえない若者なので、広い人間社会から見ると、幅の狭い人物でしかない。

それにビジネスの世界では、あまりにも金のにおいが強く効率に重点を置きすぎるので、話が余裕のないものになってくる。

人間同士がリラックスしてコミュニケーションを図って伸よくなろうとするデートの場には、ビジネスの話題はなじまないのが普通だ。

 

やはり、文芸、絵画、彫刻、音楽、演劇など、人間の感情に訴え感情で味わおうとする芸術の話題のほうが歓迎されるはずである。

もちろん、どの芸術の分野においても、突き詰めていけば、その裏には必ず金の問題が潜んでいる。

好きな道であるからといって入っていった人も、そのうちに生計を立てるためにという要素が強くなってくると、常に金の話が絡んでくる。

芸術を鑑賞する側の人たちも、芸術的感興の世界に浸ろうと思えば、ある程度は自分の懐と相談する必要もある。

しかし、いったんその世界に入ってしまえば、少なくとも「純粋で高尚な遊び」を楽しみ味わうことができる。

それは精神的な糧となり、人生をより充実したものにしてくれる結果となる。

そのような芸術の世界との接触がない人の場合には、人間というマルチな興味を持っている動物に対する理解に欠ける部分が出てくる。

人間の感覚に訴えるものに対する繊細な反応や人間共通の感動が経験できない人である。

いわば複雑に絡み合っている喜びや悲しみの感情に鈍感な人だ。

したがって、幅の広い感性やバラン ス感覚とは縁遠いので、人の感情の起伏についても疎い結果になっている。

 

芸術の理解とは、芸術作品にできるだけ虚心坦懐に接しているうちにできるようになるものだ。

芸術について本を読んだり人の話を聞いたりするのは、芸術に対する理解を妨げる。

本や話となって表現されたものは、芸術の二次的な説明であり解説である。

人の論理を自分の論理で受け継ぐので、元の芸術の「感情」が伝わってくる確率は非常に低いのである。

 

絵画であれ音楽であれ、人がよいという作品であっても自分が嫌だという場合がある。

人がよいといっているのでよいに違いないという姿勢は、芸術の世界においては間違っている。

自分が創造する側にあったら、それは自分の自由な心の表現ではなくなり、芸術ではなくなってしまう。

その考え方は鑑賞する側にある場合も同じだ。

社会的な拘束に縛られないという点に、芸術の重要な価値の一つがある。

その観点に立ったうえで芸術の話をすれば、それは単なる解説ではなく芸術を通じての心と心のふれあいになる。

それができない男は、どんなに仕事の場で優れた能力を発揮していたとしても、人間性の幅がないので、特に女性の目から見た場合、つまらない男にしか見えないのである。

ワンランク上の男は、仕事ができるだけではなく、感性豊かで自分自身の心の表現となるようなかたちで芸術の話もすることができる。

社会の約束の中で縦横に動くことができると同時に、自由な発想と理解の世界の中でも遊ぶことのできる人である。