腰は低すぎても無礼になる

ある落語の大師匠はとても腰の低い人だったらしく、楽屋で自分より技量も年齢も下の前座の人などに出くわしたときでも、非常に丁寧なお辞儀をしたという。

それも、まるで畳に額をこすりつけるほど深く体を折り曲げるのである。

本人にしてみれば、「前座であろうと真打ちであろうと、人間というものは分け隔てなく接しなければいけない」といった人生哲学を持っていたのだろうが、お辞儀をされたほうの前座の人たちには、師匠のこの丁寧なお辞儀がとても評判が悪かった。

自分たちのようなペエペエを揶揄(やゆ:皮肉っぽく)するために、わざとそんな馬鹿丁寧な挨拶をしているのではないかと受けとったからである。

つまり、師匠がよかれと思ってやったことが、弟子たちには通じていなかったことになる。

 

腰が低い人はどこでもうまくやっていけるというが、丁寧すぎたり、腰が低すぎると、逆に相手を尊重していないと受け取られることがある。

人間関係では適度な敬意というのがあって、それを超すと逆に無礼になることがあるのだ。

人から疎まれたり、嫌われるという原因のひとつには、そうした何でもないことが原因になっていることが非常に多い。

それは、ちょっとした気の遣い方がボタンの掛けちがえを起こしているときによく起きる。

 

たとえば、金持ちが知人に、「いやあ、すごいブランドのハンドバッグねえ。とてもそんないい物、私には買えないわ」と、おせじのつもりで言ったとしたらどうだろう。

言われたほうとしてみれば、バッグをほめられてうれしいと思うより、嫌みを言われた気にならないだろうか。

「全然そんなつもりで言ったんじゃないのに」と金持ちが言ったとしても通じる場合と通じない場合があるのだ。

 

人間性が極端によくないためであるとか、欠陥人間であるといったことよりも、むしろ本人の思いが周囲の人たちには通じないものであるために、自ら不興(ふきょう:相手を不機嫌にさせる)を買っているということが多い。

要するに、そういう人は、自分を演出する方法が下手なのであろう。

他人から理解されるためには、自分だけの思いを貫き通すのではなく、 相手がどのような人間で、どう感じているかということを察して近づいていくことが必要ではなかろうか。

単に、誰にでも腰を低くしていれば人が心を開いてくれるというわけではない。