ほどよい遠慮が、我が身を助けるときもある。

「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」は「平家物語」の一文である。

ナポレオンは、「最も大きな危険は勝利の瞬間にある」といった。

このように、洋の東西を問わず、昔から謙虚であることの重要性が説かれてきた。

だから、謙虚はいいことなのだろう。

謙虚(けんきょ):控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。

 

ある一部上場企業には、「社員として身につけるべき一五訓」というのがある。

その中の一訓が「謙虚であれ」だ。

しかし、よく考えると不思議な気もする。

そもそも謙虚とは、その人の中に「ある」ものなのか、それとも「なる」ものなのか。

「謙虚であれ」と説いているのは、「いまは謙虚でないあなたでも、謙虚に振る舞うようにしなさい」ということだろう。

 

だが、もともと謙虚ではない人が、本当に謙虚になれるのか。

謙虚なフリをするだけではないのか。

謙虚で「ある」ことがその人の性格の場合は、たしかに本当に謙虚でいられるだろう。

だが、そうではない人が意識的に謙虚でいようとすると、どこかで無理が出る。

たとえば、悠勲無礼(いんぎんぶれい)な人だ

悠勲無礼(いんぎんぶれい)表面の態度はきわめて礼儀正しく丁寧だが、実は尊大で相手を見下げているさま。

 

一流を気取っているホテルやレストラン、航空会社などのサービス業では、悠勲無礼な従業員をときどき見かける。

彼らは、お客に対して謙虚に接しているようでいて、どこか見下した失礼な態度をとる。

たとえば、ジャケット着用が基本のレストランでセーターなどを着ていったとき、ボーイがお客に、「お客様、それは・・・」と指摘したりする。

空港で、探せばすぐわかるような場所を受付で尋ねたとき、案内嬢に「そんなことまで」といいたげな微妙な間があく。

使っている言葉こそ丁寧だが、上から目線の距離にいるのだ。

そうした態度について、なかには「カチン」とくるお客もいる。

だが、当の本人は「自分は謙虚に接している」と思っている。

 

人は、謙虚に振る舞おうと意識すると、かえって鼻持ちならないイヤな人間になる可能性がある。

だから、謙虚よりも、むしろ「遠慮」を心がけたほうがいいのではないか。

遠慮は一歩身を引くことであり、行動に見えるからわかりやすい。

「ここは、ちょっと遠慮しておこう」と一歩引くことで、人間関係が円滑になることはよくある。

遠慮を使いこなせるようになると、人との距離が上手にとれる。

 

20代後半のサラリーマンが、上司である課長から夕食をご馳走になった。

その席には上司の同期である隣の課の課長もいた。

会計がすみ、課長同士で「もう一軒行こう」と話している。

「お前も行くか?」と誘われたが、遠慮した

「いえ、すっかりご馳走になりました。僕は帰ります。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」

これが、ほどよい距離感というものだろう。

上司にいわれたからと、またホイホイつきあったのでは、「あいつは、ちょっとずうずうしい」と思われかねないのだ。

 

ある30代のOLは、通っている料理教室の講師が主催する「特別無料懇親会」に参加したかったが、遠慮した。

すでに参加希望者が定員を超えているのを知っていたからだ。

自分にも「参加したい」という権利はあるが、講師を困らせても仕方がない。

すると、後日、講師が声をかけてくれた。

「先日は気を使ってくれてありがとう。次回は優先的に声をかけるから、ぜひ、参加してくださいね」

このように、遠慮した分がどこかで返ってくることも少なくない。

逆に、遠慮しすぎはよくない。

何もかも引いていては、自分の存在的な理由を見失う。

存在的な理由を見失ってしまったら、どんな人との関係もつくりようがない。

どうしてもやりたいこと、どうしてもいいたいことまで遠慮していてはいけない。

「譲れないこと」をしっかり押さえたうえで、遠慮というテクニックをうまく使いこなしてみてはいかが。