ルールを自ずと身につけること・・・人間関係をつくる

人間関係で守るべきルールとは、その人間関係の気楽さや、安心感の基礎となるものなのである。

将棋盤に向かって二人が坐り、二人がルールを知らなければどうなるであろうか。

将棋盤をはさんで二人が向き合い、明るくさわやかになるのは、その二人がルールに服しているからである。

 

スポーツが人の気持ちを軽く明るくするのは、スポーツに参加するものが、そのルールに服しているからである。

ルールを争うのでなく、ルールにしたがって争うから人の気持ちは明るくなるのである。

野球場に立つものは野球のルールによって自らの存在を規定されている。

だからこそ競技者はその気持ちにキッパリとした規範を得て明るくさわやかになるのである。

野球のルールを知らずに野球の試合に参加して、あるポジションを守っていることを想像してみると、それが如何に不安かがわかるであろう。

 

同じ人間じゃないか

という言葉を豊かな時代に自らの甘えを弁護するために使うということは、ルールの外に出てしまうということなのである。

そうなれば疎隔感(そかくかん)が出てくるし、感情は鈍化してくる。

やがてはすべてにわたって感情の動きは不活発になり、ついにはすべてのものへの興味を喪失してしまうことにもなる。

 

非常に親しい人と、あまり親しくない人あるいは未知の人との間ではルールが違う。

しかし、ルールはあくまでも存在する。

それがなければ社会生活は不可能になる。

ラグビーのルールと、バレーのルールは違うが、ルールがあることによって、それぞれのスポーツは可能になるのである。

 

ところで、このルールはどうして習得されるのだろうか。

実は、このルールは自然と身につけるベきものなのである。

自己の確立と共に、先輩に対してと同輩に対してのルールの違いは自然とわかってくるはずなのである。

人間に対する信頼感ができてくれば、それぞれの人間関係に対してそれぞれのルールが自然と眼に見えてくる。

 

浅くついあいすべてをパロディ化する現実に対する不信感を生み出す傾向は人間に対する信頼の欠如である。

自己は他人との関係のなかで形成されてくるものである。

他者を信頼することなしに自己を信頼することはできない。

「あなた」への信頼は「わたし」への信頼なしに不可能だし、その逆も不可能である。

「あなた」と「わたし」は自分にとって同時に生まれてくる。