人から教わるのを止めることから出発する

今までとは違ったことをやってみることだ。

たとえば、今までは『やってもできない』 と思っていたことはやらなかった。

しかし今度は、やってもできないと思えばこそ、やってみるのである。

もしかしたらひょっとしてできるかもしれないし、また予想通りできなくても、行動そのものの持つ喜びがわかるきっかけにもなるかもしれない。

また思っていたほど結果というのは大切ではないのだ、と思えてくるかもしれない。

また今まで馬鹿馬鹿しいと思っていたことをやってみることである。

すると、今まで馬鹿らしいと思っていたことが案外面白かったりする。

あるいは今まで自分がつまらないと思っていたのは、自分の利己主義からだとか、他人との関係が希薄であったからだとか気づくかもしれない。

あるいは自分の価値観のかたよりに気づくかもしれない。

何をやりたいのか自分でハッキリしない以上、ハッキリわかっていることは、今のままの自分ではどうしようもない、ということである。

わかっているのは今までの生き方が間違っていたということであろう。

生き方が間違っていないのに、どうして無気力になってしまうことがあろうか。

だからこそ、今までと違った行動をすることによって、そこに何かを見つけようというのである。

 

今まで他人に親切にするのは自分に利益をもたらしてくれそうだと思う時だけだったとしたら、今後は数回でもいいから、自分の将来に何のプラスにもならないような人に、手紙を書いてみたり、その人に何かお目出たいことがあったりした時はプレゼントをしてみることである。

そういうことで、ふと『あれ』と思うような暖かい気持ちが自分のなかに湧いてくることがあるかもしれない。

今までのギスギスしたこととはまったくことなる感情、今まで自分が味わったことのない異質な新鮮な感情が、ふと感じられるかもしれない。

それは今までは他人を自分の手段としてしか見ることができなかった故に、味わうことのできなかったものであろう。

 

今までの行動の仕方とことなった行動の仕方をすることが大切である、ということは、また新しいことを、変な理屈をこねまわしていないで、とにかくやってみる、ということである。

まず他人に聞く、まず他人に教わろうとする、そういうことを止めることから出発しなければなるまい。

そして『必ず好きなことは自分で見つける』と自分にいいきかせるしかない。