話をするのが苦手だという人がいる。

しかし、そのような人でも、気の置けない友人たちと話すときは、突如として雄弁になる。

思っていることを人に聞いてもらうと、心の中がすっきりする。

しゃべるのは精神的には排池作用にも似た効用があるからだ。

 

何か心に鬱積(うっせき)したものがあるとき、それを言葉にして吐き出してしまえば、気分が爽快になる。

したがって、しゃべるというのは精神衛生を健全に保つうえで欠くべからざる行為である。

それだけに、うっかりすると独り善がりになる傾向があるので、注意を要する。

 

話す相手が適切な人であるかどうかを考えたうえで、時と場所と場合とを考慮してから口を開かなくてはならない。

話を聞く側としては、当然のことながら、常に自分にとって聞きたいと思う話であるとは限らない。

耳を塞ぎたくなるような話もあれば、聞いていてもこのうえなく退屈な話もある。

しかし、度量が大きくて知的に「食欲」な男は、どんな話に対しても徹底的に耳を傾ける。

それが重要な情報源の一つであることを知っているからだ。

 

人の話はどんな人の話であれ、それは話された途端に、一つの厳然たる事実になる。

紛れもない現実になり、まさに生きた情報だ。

人の口から出てきた以上、それは内容についての信悪性に疑いがあるかないかには関係なく、どこかで役立つと考える。

自分が話を聞く羽目になった相手は、知人であれ見知らぬ人であれ、また立派な人であれ、一見したところ取るに足りない人であれ、少なくとも運命的には縁のある人である。

せっかくの出会いであれば、その機会を無下に捨て去るのはもったいないと思う。

そこで真拳な態度で耳を傾けるのである。

 

面白い話や役に立つ話は、誰でも聞きたいと思い、面白くない話や何の役にも立ちそうもない話には時間を割(さ)きたくない。

しかしながら、面白いかどうか、役に立つかどうかは、聞いてみなくてはわからない。

話題には興味がないと思っても、話の中に珠玉(しゅぎょく)ともいうべき教訓を学び取ることのできる場合もある。

最初は面白くないと思って聞いていても、奇想天外な事実や考え方が展開されることもある。

逆に、いつもためになることをいってくれる人であるからといって耳を傾けていても、昔聞いたのと同じような、蒸し返しの話であったりする。

しかしながら、そうした場合でも、同じ話の種の中に人生に対する心構えのヒントになるようなものを見つけることもある。

 

要は、耳を傾ける人の心掛け次第で、話の価値も上がったり下がったりする。

人の話を聞くときでもそうだが、この世の中のことはすべて「塞翁(さいおう)が馬」である。

※塞翁が馬:人生の幸不幸や吉凶は変転するものであり、人間の予想や思惑どおりにはならない。

そのつど、損をしたと思って嘆いたり、得をしたと思って喜んだりしていても、後になってから逆の結果になるかもしれない。

そうなれば、何事もすべて経験であって、そのうちに何かの役に立つこともあると考えるのが得策であろう。

それが人生を積極的に生きていくことにもなる。

 

おしゃべりは軽い人であると見られる。

才気換発(さいきかんぱつ)という様子で人生のヒントになるようなことが次々にほとばしり出てくる人もいるが、これはどちらかというと例外的である。

※才気煥発:優れた才能のはたらきが盛んに表われ出ること、またそのさま。

普通、多言は軽口である。

口数が多ければ多いほど内容は薄いものになる。

一般的におしゃべりといえば、女性に多いと考えられている。

ひまにまかせてしゃべりまくるというイメージがある。

したがって、男のおしゃべりといえば、軽薄に論をかけたような印象がある。

男性中心主義の流れを汲む考え方であるかもしれないが、否定することのできない現実である。

 

やはり「男は黙って」というのが男らしい。

口数の少ない男には「不言実行」というイメージがつきまとうので、重みが出てくる。

人と相対するときは、必要のないことはできるだけいわないようにしてみる。

その結果は必ず相手のいうことに耳を傾けることになる。

そうすれば、「あの男は人の話をよく聞いてくれる」という評判になり、格が上がることは間違いない。

 

口が重い人の言葉には稀少価値がある。

それだけに一言には重みがある。

何かちょっと意見をいったりした場合も、説得力がある結果になる。

また自分の話をじっと聞いてくれる人に対して、人は無意識のうちに感謝している。

そこでその人が何かいえば、こんどは自分が聞く側に立つことによって報いようと考えるようになるのだ。