感性が鈍いと問題の「発見」 も「解決」もできない
組織に長く勤めた人は、伝統や前例を重んじ、あるいは上司や自分や会社の立場が先に立ち、多くの人々への思いやりに欠ける恐れがある。
つまり、「知らず知らず感性が鈍っている」のである。
これは身体の「生活習慣病」と似ていて、本人の「自覚症状」がないだけに恐ろしいことである。
したがって、組織に長く勤めた人は、まず感性を鈍らせる要素を排除し、感性を蘇らせる「訓練」が必要である。
まず、その心構えを挙げてみる。
①そんなことは知っている
②そんなことは当たり前だ
③前例がない(前にやったがダメだった)
④私は最善を尽くしている
⑤ほかにやりようがない
⑥私の責任じゃない
⑦まあ、こんなもんだ
⑧他人はどう思うだろうか(どうしましょうか)
⑨ 「変わっている」と言われたくない
⑩みんなと同じでいい
⑪私が正しい
⑫あなたが間違っている
これらの考えをもったら、これは感性を鈍らせる原因になるので、すぐに改めること。
①そんなことは知っている
市場のこと、ユーザーのこと、商品のこと、ライバルのこと、部下のことなど何でも自分は知っている。
そういうときに限って盲点があるものだ。「謙虚さ」を忘れたところから、”気づく” 感性は鈍る。
「当たり前」で済ましてしまう感覚
②そんなことは当たり前だ
③前例がない(前にやったがダメだった)
④私は最善を尽くしている
⑤ほかにやりようがない
⑥私の責任じゃない
これらは、すべての問題や困難を、たとえば「不況だからものが売れない」 「そんなことは当たり前だ」という具合にあきらめ、何か提案やアイデアが出されても、「前例がない」「前にやったがダメだった」で片づけてしまう。
「どうして、目標を達成できなかったのか」と問われても、
「私は最善を尽くしている」
「ほかにやりようがなかった」
「私の責任じゃない」
「できなかった理由」を並べ、責任逃れが先に立つ。これでは、困難を克服して、目標を達成したり、意欲的に目標チャレンジして非凡な結果を出すことなどはできるはずがないし、画期的な商品やサービスが開発されるはずもない。
問題は積み残しになり、いつまでも「旧態依然」のままである。
職場や地域に由々しき問題やトラブルが続いても、
⑦まあ、こんなもんだ、
と目をつぶってしまう。
意欲的な提案に対しても、
⑧他人はどう思うだろうか
と考え、自分の考えを出さない。自分の考えは初めからないのかもしれない。
何か困ったこと、迷うことがあると「どうしましょうか」とお伺いばかり立て、「こうしたらどうですか」と提案することはない。
⑨「変わっている」と言われたくない
⑩みんなと同じでいい
という考えでは、ユニークで斬新なも のは生まれ てこない。
⑪私が正しい
⑫あなたが間違っている
といっていたら、立場のちがう相手と合意に達するはずがない。
「感性が鈍い」とは、こういう状態の人で、これでは何事も勝着 状態で、どうしようもないことが分かるだろう。
省庁の高級官僚、地方行政の公務員、大企業、銀行の上層部、中堅幹部の中には、「心の生活活習慣病」にかかって「頭が固くなり、感性が鈍った人」が比較的多いような気がする。
このように見てくると、やはり物事に「気づく力」すなわち「感性」を磨くことが大切であることに思い至るであろう。
さらに、せっかく気づいても何もしなければ、はじめから気づかなかったのとあまり変わらない。
気づいたことを具体化して実行し、事態をよりよい方向に変えてこそ、 気づきが生きるのである。