偽りの罪と本当の罪があることを知れ
この世のなかには偽りの罪の意識と、本当の罪の意識とがあることを決して忘れてはならない。
それにしても偽りの罪悪感に苦しんでいる人が、この世には何と多いことだろう。
そして偽りの罪悪感に耐えられなくて、他人にとって都合のよい存在にとどまっているのが、神経過敏な人なのである。
世のなかには身勝手な人が多い。
そして、そうした身勝手さを受け入れてくれる人を、身勝手な人はほめたたえる。
逆に自分の身勝手さを受け入れてくれない相手を指弾する。
対人的に神経過敏な人は、この指弾に耐えられないので、何でも相手のいうことを聞いてしまう。
たとえば、身勝手な人が遊びの金ほしさに、対人的に神経過敏な人に借金を申し込んだとしよう。
金を借してくれ。
というのでもいいし、あるいはあるところから借金するのに連帯保証人になってくれ、というのでもいい。
ここにちょっと印を押してくれるだけでいいんだ。
といわれた時、ノーといえない人がいる。
自分に十分金があるのならまだしも、自分の生活が精いっぱいであり、妻子を養うのにフーフーいっているのに、ノーといえない人がいる。
連帯保証人の印を押してくれといわれた時、相手にノーということに、その人は罪悪感を覚えるのである。
対人的に神経過敏な人はその依頼をことわることは、何か相手を裏切ることのように思う。
ノーといえば裏切ることになると思い、罪悪感に苦しむのである。
また、その罪悪感からどうしてもノーといえないのである。
しかし考えてみれば、こんな時の借金の申し出にノーということは罪であろうか。
決してそうではあるまい。
こんな時イエスということの方が本当の罪である。
自分が扶養の義務を負う妻子を犠牲にして、他人の遊興の費用をつくることはない。
しかし、まことに不思議なことに、偽りの罪に敏感な人ほど、本当の罪に鈍感である。
ノイローゼになるのは、この偽りの罪に敏感な人の方である。
本当の罪に敏感な人は案外ノイローゼなどにはならない。
これはやはり、小さいころから親の身勝手な期待に屈し続けて生きてきた結果であろう。
小さいころ親の身勝手な期待を裏切ることが罪悪感からできない人は、社会人になってからも偽りの罪悪感ばかり持って、他人の不当な申し出にノーといえなくなっているのである。
本当の責任感が出てくれば、実はこの偽りの罪悪感は消えるものなのである。
この偽りの罪悪感は、本人の自信の欠如から出ているものにすぎない。
大きいもの、強いものへの依存心があるからこそ、実はこの不当な期待にそむくことを裏切りと感じてしまうのである。
裏切りとなれば当然罪の意識は出てくる。
しかし、自分に課せられた不当な期待にそむくことは、決して裏切りではない。
それは正当な自己主張である。
そして自己主張こそ自信を生み出していく。
小さいころ情緒的に未成熟な親に自分の情緒をとり込まれてしまった人は、自己主張を裏切りと錯覚してしまう。
何かそれはしてはいけないことに感じてしまうのである。
そして相手に対し依存心があるからこそ、期待にそむいて相手から指弾されることを恐れる。
そしていいなりになってしまうのである。