田舎暮らしを楽しめる人、楽しめない人

組織の中で何十年も採まれて神経をすり減らしてきたのだから、せめて定年後は豊かな自然のある田舎でのんびり暮らしたい。

そういう人がけっこういる。

気持ちはわからないでもないが、憧れだけでは続かないのが田舎暮らしの難しいところだ。

 

知り合いにこんな夫婦がいる。

九年ほど前、旅行で立ち寄った房総の海沿いの小さな町が気に入り、以来、近くの貸し別荘を利用するなどして、しばしば休暇を楽しんできた。

滞在中、ご主人は趣味の海釣りへ出かけ、奥さんは日がな一日、本でも読みながらのんびり過ごした。

そして夜にはご主人の釣果をさかなに夫婦で一杯やるのが何よりの賢沢だった。

「定年後の人生が、毎日こんなふうだったらいいのになぁ」

やがて二人は、そこへの移住を考えるようになり、五年後、定年を迎えると古い借家を見つけて本当に移り住んでしまった。

東京の自宅は賃貸に出し、その家賃収人で借家代は十分に賄えた。

新しく始めた田舎暮らしは楽園に思えた。

ご主人は釣り三昧、奥さんは借家についていた小さな畑で家庭菜園を楽しんだ。

ごま人の釣ってくる魚と自分の育てた野菜で作る料理は、どんな高級レストランの食事より美味しい。

 

ところが、そんな生活は長続きしなかった。

一年もすると、目新しいことを一通り経験してしまい、奥さんのほうが刺激のない田舎の暮らしに飽きてしまったのだ。

「親しい人が誰もいないでしょう。あれってこたえるんですよね。土地のことも何にも知らなかったし。五年も通い続けたのに、 所詮はただの旅行者だったってことです。それに主人のようにあの土地ならではの趣味があったわけでもないし。家庭業園も面白かったのは最初のうちだけ。自分には向かないんだなって痛感しちゃいました。そうなるともうダメ。こんな田舎はイヤ、東京に帰りたい!そう思っちゃった」

二人の田舎暮らしは、結局、11年ほどで慕を閉じた。家を貸していた人が引っ越したのを機に東京へ戻ったのだ。

「田舎暮らしを始めるとき、主人は東京の家を売って、房総に新しく家を建てるつもりでいたんです。私は子供との思い出もあるから反対でした。結局、予算的なこともあって売るのはやめたんですけど、いまから思えば大正解でした。もし東京の家を処分して房総に家を建てていたら、こんなに簡単には帰ってこれなかったでしょうから」

 

自然が豊かで空気がきれい。水もうまい。物価も安い。

田舎の暮らしに憧れる人はどこかで田舎を美化しすぎているところがある。

自然が豊かであれば、都会ではお目にかからないような虫などもウジャウジャいる。

娯楽施設や文化施設などはないに等しく、買い物だって車でひとっ走りしないとジュース一本買えやしない。

退屈こそ贅沢と思える人でないと、田舎の不便な暮らしを長く続けるのは容易なことではないのだ。

たしかに田舎は安上がりだが、裏を返せば、使うところがないだけとも言える。

病院も遠い。役所も遠い。郵便局も遠い。バス停だって家の近くにはまずない。

しかも一日に何本も走っていないから車は必須だ。

七十歳代になると、そろそろ車の運転が怪しくなるから、足の確保をどうするかはいずれ切実な問題になるだろう。

まして車の運転をしない人は田舎暮らしはまず無理だ。

それに田舎にはその地域特有のさまざまなしきたりがあり、人間関係は濃密だ。

ある田舎では、定期的に集落の人が総出で道路わきの草刈りなどを行なう。

これは全員参加が義務づけられた行事だ。

都会にもご近所づきあいはあるが、田舎のそれは次元が違う。

そうしたつきあいの苦手な人はまず田舎暮らしは向かない。

逆に言えば、地域とうまく交流できる人は、いろいろな支援も受けられて、すんなりと田舎暮らしに入っていける。

地域とのつきあいは、田舎暮らしの成否を分ける重要なポイントである。

 

最近は都会のライフスタイルを豊かな自然のなかで実現しようとする、言ってみれば、田舎のいいとこどりをしたがる人も増えていて、地元と軋轢(あつれき:仲が悪くなること)を生むケースが少なくないという。

地元に溶け込まず、自分のライフスタイルを押し通す人が増えているのだろう。

このため移住者が急増している石垣島のように「もう来てくれるな」とあからさまに地元が拒絶反応を示しているところもある。

移住の経済効果もあるはずだから、地元にとってはマイナスばかりではないはずだが、それでもそうした声が出てくるのは、よほど腹に据えかねることがあるのだろう。

いずれにしろ田舎暮らしを望むのは、たいていご主人のほうで、普通、奥さんはあまり乗り気ではない。

会社一筋でろくに友だちもいないご主人と違って、奥さんにはご近所さんや趣味の仲間など友だちがたくさんいて、住み慣れた街を離れたくないからだ。

夫婦に温度差があったら、まず田舎暮らしはうまくいかない。

事前によく話し合うことだ。

また地方の出身などで、ある程度田舎のことがわかっているならまだしも、都会の暮らししか知らない人は、情報収集なども含めた周到な事前の準備が絶対に不可欠である。

理想と現実にはギャップがあるものだ。

思っていたほど田舎の暮らしは楽しくないかもしれない。

そんなとき、マイホームを処分して完全移住していると、都会に帰りたくても簡単には帰れなくなってしまう。

失敗したときのことを考えれば、「マイホームは人に貸し、田舎暮らしは賃貸で」というのが、いつでも帰れる賢明なやり方ではないだろうか。